春の桜

 さきほど、特に用があったわけではありませんが、河川敷に行ってきました。河川敷というのは、どこの土地もよく似ています。理由はよくわかりません。それほど大きくはないグランドが幾つか並び、心許ない木製のベンチがあり、野球のスコアボードの角がめくれていたり、網のないサッカーゴールが伏せられているのも、おなじでした。歩道の並びに、桜がささやかな桃色を添えているところもおなじです。対岸の奥に見える公団住宅の形や、山の陰影さえ、どこか似通っています。早朝あまりひとが居ないのも、おなじなようです。三十分あまり、暇にかまけてぶらぶらとしましたが、誰にも会いませんでした。犬の糞がやけに多くて、なんだか、心細くなりました。休日のせいか、空を飛ぶヘリコプターの音さえ、どこか静かに感じます。
 ぼくがふと、春を感じたのは、どこからか、恐ろしく強い風が吹いてきて、それが、生ぬるかったからです。やけに生ぬるい風でした。残り湯のように生ぬるく、張り合いのない風でした。張り合いがなければ、すべて春の風、という訳ではありません。ぼくのような半人前が、厳密にそれを言うのは難しいようですが、春の風には、なにか去来するものがあります。ひょっとしたら、ぼくが風に春を感じたのは、謂わば、消去法的に、なのかも知れません。夏でもない、冬でもない、なんとなく秋でもない、これはひょっとしたら、春ではなかろうか、といった具合です。少しも雅ではありません。桜が咲いていたのも関係があるのかも知れませんが、ぼくは昔から好きではないので、あまり見ませんでした。桜は、悲しい感じがします。夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春に、桜は咲きます。春になると、桜は咲きます。とても、悲しい感じがします。土手のうえに一本だけこんもりと咲いているのを見たり、樹の下で写真を撮られたりすると、無性に悲しくなってきます。誰かに謝りたいような気がしてきます。見上げると、やはり悲しくなって、見下げると、いよいよ犬の糞もおおくなってきたので、足早に帰りました。携帯電話の着信を見て、巡回先のブログをさっと眺め、いまこれを書いています。
 色々と謝らなければならないことは、多くあるようです。色々なひとに悪いことをしてきました。たぶん、数え切れないほどあります。悪いと思って、していなかった悪さこそ、いちばん、悪いことのような気がします。無垢などというのは、害悪そのものなのかも知れない。訳もなく、うめき声のようなものが出てきます。思い出すだけで、恥ずかしいものです。意図して行った悪さは、どこか苦さがあります。魚のはらわたのように、苦い味がします。
 万が一にも、上田さんが、ここを見ているということは有り得ませんが、いまから、謝ろうかと思います。無性に誰かに謝っておきたい気がします。謝ることに、相手はいらない。たまに、そう思うことが、ぼくにはあります。
(『熟れた桃』に続く)

Chateau Griffe de Cap D'or 2001

 ああ、伊東さんが今日はお休みだから、なんにも言えないのだと思った。なんにも言えないの前に、あまり話すこともなかったので、話したくはなかったのだけれど、それでも美容師というのはよく喋る。ハサミを仕切りに動かし、鏡越しに、ちらっ、とこちらを見て、それからひとことふたこと言って、また、ちらっ、とこちらを見て、ひとことふたこと言って、こちらが面倒くさくて相槌だけを打っていても、また笑顔でひとこと、ふたこと言って、襟足なんかをハサミの先で、小刻みに切りながら、笑顔でまたなにかを言って、終いに無視をしていると、痒いところございませんか? などと見当違いのことを言ってくる。ああ、伊東さんがお休みだとわかっていたら、今日はこなかったのに、と思いながらも、ぼくはじっと坐っていた。いつもより切られ過ぎな、耳の上の辺りを見つめて、溜め息をつきたい気持ちになる。三日、いや、伸びるまで一週間。剥き出しになった耳の上を見つめて、真新しいスポーツシューズを履いて人ごみを歩いたような、居心地の悪さを感じる。真っ白い靴に包まれた両足を見て、飛び跳ねるように嬉しくて仕方なかった。などというのは、けしからん嘘である。派手な麦藁帽子を被って、通りを歩かされたみたいに、気になって仕方がなくなる。恥ずかしくって、今日は帰りにDVDを借りに行くのはやめようかと思う。そう思うと、頭の後ろのあたりも、妙にすうすうとしてきたように思う。思わず床を見つめて、どうかしました? と訊かれて、いいえ、と応えて、それからもう一度、今度は鏡をうまくつかって、床を見て、なんだか、とても憂鬱になる。宇宙に放り出されたような気持ちになる。ちょっと、切り過ぎじゃないの。ちょっと、このひと新人じゃないのか。店長の伊東さんを探すけれども、今日はなんだか家の都合で急にお休みだとかで、はじめから居ないのであった。川越、と名札に書いてあるけれど、見たことがないひとだ。しゃり、しゃり、しゃり、とハサミはいい音がするのだけれど、時折ちょっと顔を離して、難しい顔をするので、とても不安になる。もうすこし顎のラインが寂しげだったら、さぞかし男にもてるだろう、と失礼なことを考えていると、つむじの辺りをぐっと両手で挟まれて、ぐいっと頭の位置をなおさせられた。二ヶ月ぶりですよね? と訊かれて、ええ、まあ。と割かし不機嫌に応えてから、前に来たときも居たのか、と思った。
 高級ホテルにあるビデの形に似た、洗髪台を引き摺ってきて、椅子を倒された。頭を洗われた。洗う前に合わせ鏡で後ろを見せられたら、それ程でもなかった。多分となりの女の子だろうけれど、洗髪中だから手の空いた川越さんとなにかを談笑していた。よく聞こえなかったので、薄眼を開けると、とても眼にしみた。ドライヤーで乾かしてから、わざとくしゃくしゃにするみたいにして整えられ、立ち上がったときに、ふと見下ろすようになってから、ようやく昔から、お店に居るひとだと気付いた。
 家に帰って御飯を食べていると、Kさんが、ワインを買って来た。サンテミリオンのシャトークリフ・ド・カップ・ドールという長たらしい名前のワインは、ほのかにコーヒーとバニラの香りがする。細やかさが、とても素晴らしいワインだと思った。いわく、ワインコンサルトのミシェルロラン氏と、ヴァランドローのオーナーテュヌバンさんが造った、とてもありがたいワインだという。コストパフォーマンス抜群だと、不承不承Kさんは値段を言った。美味しいものを、ご馳走すると、誰もが喜んでくれる。それなのに、ひとりでそのときのことを想像していると、なぜだか自分が卑しい人間であるような気がしてくる。寂しくなってくる。そんなことをKさんは言う。恐ろしく退屈な映画を観ながら、修行のような心持ちでふたりでそれを観終えたあと、Y君にも飲ませてあげたいと思った。なかなかに味のわかる男なのである。Kさんは自分で買ってきたからか、高い、だことの、ラベルが気取っている、だことの、今日は言わない。素直でないのである。
「美味しいお酒くらい、一心に、寡黙に、ひとりでまわりのことなど知らぬ存ぜぬで、超然と、味わえないものだろうかね」そんなことをぼくのグラスに注ぎながら言った。まったく、そのとおりである。<了>

例の長いの、あれ、放っておいた訳ではないのです。

 よし、書いてみるかな。と軽い気持ちで書き始めたのはいいのですが、ちょっと真面目に書いてみるか、いやいや、きちんと相応の努力と姿勢で書いてみましょう、と途中から思って、それほどのものでもないのに、続きを読みたいと言ってくださったのもあって、実は一見放置のように見えて、毎日毎日こつこつと書いていたわけであります。量、というのは不思議なもので、質とどのような関連があるのか、いまのぼくにはうまく言明出来ませんが、書いているときは意識していないのに、勝手にやはり短編と普通呼ばれる分量の30枚近くになり、実際はまあ、きちんとやっちゃうよ、と思った手前、200枚くらいはタイプして、合計40枚くらいを最終的な推敲の俎上にあげたわけですが、俗にいう書き物と言われるものの一番痛いところは、幾ら苦労を積み上げても、分量があっても、それでそれが面白くなるということはないということで、寧ろ苦労話を耳にすればするほど、うざくなってきてしまいます。生産とは悲しいものです。まあ、それはともかく、書き終わって、決して満足ということはありませんが、よしちょっと、これから、やってみるかな。という訳のわからないモチベーションはうんと高まりました。以前とおなじ場所にあり、かなり書き換えもしてあるので、よろしければ、はじめから、どうぞ。としか、ぼくには言いようがありません。余り長くないし。なんだか、とても恥ずかしいことです。すぐに消すかも知れませんが、放置は性癖として、嫌いなのです。

追記

二、三日経過してから読み直してみて、絶望的な気分になった。なにをどう、なおしていいのやら。文章の精度が途中から完全に落ちていて、確かにちょっと難儀して、ぐしゃって、書き散らしてしまったのだけれど、これは酷い。目も当てられん。一端消します。いや、永遠に消したままで、いまはいたい。そういったことも含めて書いたのだけれど、でも極度に駄目すぎて、これはやばい。巨大工事が必要なのだが、いじくり出すと、柱だけ残して、どさっと、倒壊してしまいそうで、ただもう、ちまちまと、セメントをなする如く、語尾をすげ替えたりして、惨めになってくるのだけれど、呆然自失・自身消失とはこういうことを言うのだろう。

朝御飯

飽きないで、ずっとおなじものばかりを欲しがるから、中毒なんだよ。つい先日Kさんがそう言って、煙草の自販売機の売り切れの文字を見て、毒づいていたのだけれど、今朝Mくんの家で、朝食をいただいているときに、ふと、それを思い出した。右手に持っていた箸をご飯茶碗の上にそっと置いて、それからおもむろに腕組みをして、片手をほどいて緑茶のはいった湯飲み持った。昨日は酔ってMくんの家に泊まった。散々迷惑を掛けた筈だけれど、朝から奥さんは機嫌が良くて、蜆のみそ汁なんかを出してくれていた。二日酔いにいいからといって、それと納豆なんかもテーブルに並べてくれていた。隣でMくんは赤紫色の漬け物をぽりぽりと囓り、それを咀嚼しながらどこか遠くの方を見つめて、思い出したようにまた白いご飯を食べていた。毎日毎日白いご飯ばかりで、どうして誰も飽きたりしないのだろうか。と、ぼくは思った。昨夜はかなり飲んだはずなのに、不思議と二日酔いではなかった。ただどうしてか、それまで忘れていたはずの、ずっと昔の自分が酔ったときの狂態などが茶を啜りながら思い浮かんで、居ても立ってもいられないような気分になった。うなり声を上げて走り回りたいような、誰かに謝りたいような気分だった。
 お茶ばかりを飲むものだから、気使った奥さんが、鰺の干物や煮付けの入った皿を傍に置いてくれたりしたのだけれど、悪い悪いと思いつつも、どうしても食欲が沸かず、はじめは薦めていた、溶いた納豆のお椀を、今度は、匂いだけで苦手のひといるからね、と言って、ぼくから遠ざけたりしてくれたのだけれど、やはり、ぼくは湯飲みからお茶ばかりを啜っていた。思い出したわけでも、すっかりと忘れていたわけでもないのだけれど、帰り際にMくんに言われて、はっとして、懐妊のお祝いをあらためて奥さんに言った。それからタクシーに乗った。昨日はMくんと飲んでいて、途中その話しを聴かされて、酔った勢いでMくんの家に、お邪魔したのである。なんだか帰りのタクシーのなかで、ぼくは、ずっと、恥ずかしかった。

書くことと文学、純文学はどこに存在するのか。

 ブログを書き始めてぼくはブログの強制力というものを知った。なにかを書かないと後ろめたいような、申し訳ないような気がしてくるのだ。書く。という行為は、おかしなもので、本当は主張したいことも、なにかを強烈に伝達したいわけでもないのに、誰にでも出来る。なにもぼくは、書く、という行為を神格化したいわけでも、神秘化したいわけでも、ある地点から特権化したいわけでもなく、ただ言葉を連ねるそのもののことに関して言いたい。単純に言えば、お喋りと、情報の違いとでも言えばいいのか。お喋りの主眼はコミュニケーションにある(一応ここでは言い切る)、大抵の場合、その言われている内容の信憑性や言説それ自体の価値についてまで言及するのは、所謂無粋である。それは勿論、両者に”お喋り”という、ある種の緩い空間が現出しているときに限るのだけれど、問題はお喋りをしたくて、尚かつ、。それが直接”書く”という行為と繋がってしまったときで、しばしばぼくらは、書くという行為と、お喋りという行為の根源的な違いを忘れてしまう。

”書く”ということをぼくは特権化したくないから、書くを”小説”としてみよう。いや、もっと狭めて、尚かつ自戒も含めて例の”文学”という言葉にしてみよう。
 
 文学。という行為は、おかしなもので、本当は主張したいことも、なにかを強烈に伝達したいわけでもないのに、誰にでも出来る。なにもぼくは、文学、という行為を神格化したいわけでも、神秘化したいわけでも、ある地点から特権化したいわけでもなく、ただ言葉を連ねるそのもののことに関して言いたい。単純に言えば、大衆小説と純文学の違いとでも言えばいいのか。大衆小説の主眼はその消費にある(一応ここでは言い切る)、大抵の場合、その内容の信憑性や所謂人間性についてまで言及するのは、所謂無粋である。それは勿論、読み手と書き手に”大衆小説”という、ある種の緩い空間が現出しているときに限るのだけれど、問題はなにかを書きたくて、尚かつ、それが直接”文学”という行為と繋がってしまったときで、しばしばぼくらは、文学と書くという行為の根源的な違いを忘れてしまう。
自戒をこめて。

絲山秋子の滑らかさ/『沖で待つ』

沖で待つ

沖で待つ

ある程度の物語の流れと、構造まで言及しないと、一側面でしかこの小説について書けないので、以下からネタバレぎっしりです。

内容説明
仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。そんな同期の太っちゃんが死んだ。約束を果たすべく、私は彼の部屋にしのびこむ−。仕事を通して結ばれた男女の信頼と友情を描く表題作のほか、「勤労感謝の日」を収録。以上Amazonより。
本文より
「HDD?」
「ハードディスク、パソコンの」
「ああ、それやばい。私もやだ」
約束とは死語に残った互いのパソコンのHDDを壊すこと。

同本集録の『勤労感謝の日』はまだ読んでいないので、絲山秋子の小説を読むのはこれではじめてになる。随分とつるつるとしていると思った。つるつるというよりも、のっぺりとしていると言った方が、より感想に近づく。あまりにも表情のないひとを書くと思った。表情のない、ということは誤解に繋がる言い方だけど、それは刺激に対して希薄な人間という、世界とのひとつの関わり方の問題として描かれた”希薄にならざるを得ない人間像”ではなく、世界との関わりに於いて、あまり自分自身の成り立ちや、生活に疑いを持ったことのない、”いわゆるステロなタイプの人間”を、本当にするするとした感じで書いてしまってあると思った。

 <改行後、土地の説明として、以下の文章がはじまる>
 福岡の食べ物がおいしいと言われていたのは本当でした。家庭料理は食べたことがないのでわかりませんが、魚介だけではなく水炊きやもつ鍋や、焼き鳥屋の豚バラや東京よりずっと小さくてかりかりの餃子など、みんなで食べるおいしいものがたくさんありました。

ここで唐突に『みんなで食べるおいしいもの』という言葉が入るのだけれど、これ以前に、なにかしら人間関係に於ける輪のようなものが出てきたり、主人公である私にとって、『みんな』というものが、なにか特別であるということも明示されないままに、出てくる。つまり、ここで語られる『みんなで食べるおいしいもの』というのは『みんなで食べるものは、おいしいに決まっている』というひとつの価値観の顕われとして書かれているのだけれど、そのすぐ次にこのような文章が続く、

若かったから休みの日は海水浴がてら海辺でバーベキューをしたり、釣りに行ったりもしました。

なんだか、小学生の作文みたいで酷く窮屈で、退屈だ。それはつまり、そのような性格を持った人が、そのようなものの善し悪しに疑いもないまま書いた文章だからなのだが、(でもそれは実は作者自身の声ではなく、”ひとつの設定”なのだけれど。その部分と、そう思う理由についてはあとで触れます)。
 ちなみにぼくがこんな細かなところを引用して、揚げ足取りみたいに指摘しているのは、この小説の職場のシーンや、現場や、同僚や上司との遣り取りが、上記のまま、如何にも凡庸で退屈だからで、それはなぜかというと、上で書いたように、ひとつの典型的な価値観に添った人間が書いたものを、そのままなんの批評性もなく(ここで言う批評性のなさとは、そのようなステロな価値観を仮に閉じた嗜好・思考と呼ぶならば、それから他に逃れていく可能性、それから他に読み手が、読める可能性のなさ)、書いてあるからなのだけれど、それをわざわざ文学という場所で展開する価値、必要は、まったくないと思う。はっきりと言ってしまえば、この小説は、三分の二以上がそのような形の手記で占められていて、それはこの小説を、退屈で凡庸で、ほとんど救いのないまでに薄くさせてしまっている。
 以下、太っちゃんの結婚相手である井口さんが、鈍重な太っちゃんをなぜ相手に選んだのかと聞かれて答える言葉。

もっと、田代とか、福島さんとか、いい男いるじゃんよ。なんでよりによって太っちゃん。
「ビビっときたのよ」

もうすこし踏み込んで欲しいと、率直に思う。

建築のこともろくに知らず、建築用語と福岡の方言の区別さえつかない私をお客さんはときに叱りましたが、思い直せば辛抱強く接してくれる方が多かったです。私を育ててくれたのは会社の先輩よりも、現場のひとたちでした。だって、事実は現場にしかないのですから。

 以上の文章も、興ざめするような言葉なのだけれど、ぼくはさきほど上の()のなかでこれは作者の”ひとつの設定として”と、書いた。つまりこの小説はこのような”典型的な価値観に疑いをもたないものが書いた文章”という形で、他のものを成立している小説なのだけれど(そういった意味から敬語の妥当性は一応保たれている)、なにが成立しているのかというと、逆にそのような、”自分に対しての批評性のなさ”が、言葉に対しての執着を生み、その言葉だけの価値に縛られ、ときにはそこに縛られることを望み、本来そこにあるはずの感情や関係を、意識的、無意識的に、その言葉内に収めようとしていることなのだけれど、その言葉とは、以下の部分からもっともよくわかる。

終盤より。わたしと幽霊の太っちゃんとの会話。
「同期って。不思議だよね」
「え」
「いつ会っても楽しいじゃん」
「俺も楽しいよ」──略──
「楽しいのに不思議と恋愛には発展しねえんだよな」
「するわけないよ。お互いのみっともないとこみんな知ってるんだから」
 でもさあ、夏目は石川とやったらしいよ、と言いかけてやめました。

その次に、『たとえ、相手が死んでいたって、秘密は秘密です。』という言葉がはいるのだけれど、問題は、『でもさあ、夏目は石川とやったらしいよ、と言いかけてやめました。』という言葉を、なぜそのときわたしが思い出して、言いかけたのかということで、つまりわたしは、同期以上の関係を太っちゃんと持つことを無意識的に望んでいたか、どこかで意識していたからで、その次の言葉からも、同期という関係以上の感情を持っていたことが確実にわかる。『死んでも、同期は同期なのですから』どこか後悔のような、諦めた感じが入っていて、淋しい。その淋しさは、やはり同期という関係以上のものをどこかで望んでいたことから来るものだけれど、上で書いたように、わたしは同期という言葉から、抜け出すことが出来なかったという構造が、わたしの淋しさを強調させている。ひとつの、そのような”自分に対しての批評性のなさ”に対する批評が生じている。 ちなみに、この部分がこの小説に必要なのかどうかぼくはよくわからないのだけれど、相思相愛(なんか恥ずかしい言葉だなこれ)だったかも知れない可能性が、詩の部分で暗に示されているのではないかとぼくは思う。恐らくそれ以外にこの部分の必要性がよくわからないので、太っちゃんのHDDのなかには、この手の詩が、”わたし”宛てに入っていたのではないかということを以下の部分でにおわせていると思う。

「珠恵よ/おまえはおおきなヒナゲシだ/いつも明るく輝いている/抱きしめてやりたいよ」(珠恵というのは太っちゃんの奥さんで、線香をあげに来たあと、太っちゃんの奥さんから、その詩が書いたノートをわたしは見せられる)──略──
 この手が太っちゃんのパソコンにぎっしり入っていのか。私があんなに冷や汗かいて、涙まで流して、危険を冒して壊したハードディスクに入っていたのはこの箱だったのか。参ったな。
 参ったな、というのが感想でした。それなのに、このばか野郎は家にこんなノートを残して、それじゃ私って完全に無駄手間じゃん。

 それから、この次の文章でこの小説の題名の詩が出てくる。

「俺は沖で待つ/小さな船でおまえがやって来るのを/俺は大船だ/なにも怖くないぞ」
大船かよ。しかし沖で待つという言葉が妙に心に残りました。

 そうして、わたしが冒頭アパートに立ち寄った理由というのか、動悸のようなものが、この詩が出てくることで暗に示しているのだけれど、これにより絲山秋子は、亡霊という非現実的なものに対しても一応の理由を付けている。(この詩を読んだわたしの妄想かも知れない)。それから、沖で待っていたのは、珠恵さんではなく”わたし”だったという、相思相愛の可能性をも含ませている。でも正直言ってしまうと、そういったいわば小説の構造を組み上げる巧みさは確かに優れているとは思うのだけれど(でも、どちらかというと、この小説では、それは貼り絵のような薄いもので出来ている。たとえばわたしの窃視が亡霊となった太っちゃんから終盤指摘されるのだけれど、これもまた他の詩の部分や、沖で待つという言葉とおなじく、物語そのもののダイナミズムとは関係なく、また人を描くために必要な要素などでもなく、『わたしという人間が、目の前の手の届く人よりも、遠くの手の届かない人により特殊な感情を持つ』ということの、単なる貼り付けたような帳尻合わせにしかならない。若しくは作者の窃視という文学的な厭らしさを単に狙って挿入したもの)
 はじめにも指摘したのだけれど、やはりこの小説のどうしようもないところは、そのような構造をつくり出すために、作者のなかで必要な人格だったとはいえ、それをそのまま、書いてしまったことにあるわけで(しかも三分の二も)、そのつまらなさは、ほとんど圧倒的に読み手のなにかしらを殺いでしまうように、この小説では作用しているような気がしてならない。作者は構造上の矛盾というか不足のようなものには過度に敏感なのだけれど、もうすこし踏み込んだ小説というものが書けないものだろうか。そういった自分のどうしようもなさみたいなものを、小説として書けないものだろうか。ぼくはこのひとのそういう局所しか目に入らない完璧主義というか(全然完璧主義ではないけど、本人はそう思うからおもしろい)、偏ったどうでもいいこだわりや、実は相当に読者を意識しているおもねりが、すごくおもしろいと思うのだけど。
 ──捕捉──
 この小説の同僚という執着が、過度の執着として見られないのは、それが与えられたものでも、獲得したものでもなく、否が応にもラベルのように付着するものだからだろう。但し、そのラベルはそこから違う関係に発展することで、もともと剥がすことは出来ないが、あたかもそれがどうでもいいことのようか、剥がれたことのように思うことが出来る。つまりこの小説でいえば同期からもっと違う関係になるということなのだけれど、そのような関係に発展しないこの小説は、どこかしら煩悶のようなものを技法として隠していて、それなりの陰影を与えていることに成功している。