そこにある物語が切ないのではなく、博士という記号が泣けるのである/小川洋子『博士の愛した数式』
- 作者: 小川洋子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/11/26
- メディア: 文庫
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理由や要因や原因はさておき、100%自分の感情を意のままに操るということは、社会や多数の中で生きていく上でほぼ無理なことであるでしょう。(ひょっとしたらひとりで生きていてもそうかも知れない)。例えばぼくは、近親者と性行為が出来ないし、それがたとえ写真であっても死体を見ると吐き気を催すし、デパートなどで子供の泣き声を聞くと気分が悪くなってくるし、なにかしらの障害を負った人間が困難に遭っていると思わず手助けたくなるし(実際助けるかどうかは別だ!)、年老いた人間の年老いた行動を見ると、ただそれだけで胸が切なくなってしまうことがある。それらの理由や要因や原因はさておき、実はある程度そういったパターンを熟知してしまえば、ひとを泣かせることは案外簡単なことではないかとぼくは思う。テレビドラマや映画は大抵そのような”泣ける”パターンの集積で成り立っている。(勿論ぼくにそれが出来るかどうかは、別問題だ)。
もっとも私を戸惑わせたのは、背広のあちらこちらにクリップで留められたメモ用紙の数々だった。それらは衿、袖口、ポケット。上着の裾、ズボンのベルト、ボタンホールなどなど考えつく限りの場所に貼り付いていた。
結論から言ってしまえば、ボケ老人の悲哀という、ただそれだけでどうしようもなく泣けてしまうことを、巧妙に数学というセンチメントと廃したものと結びつけて、その癖それを利用して条件反射的に”泣かせる”、どうしようもない、”泣ける小説”のたぐいにしかこの小説はぼくには思えなかった。
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ただそんなこと言いながらも、やはりぼくは最後の場面で、泣いたら負けだと思いながらも、思わず涙ぐんで鼻を鳴らしてしまうのだが、しかしそれにしたところで、江夏のカードを博士が誕生日に貰い、それを後生大事にするために肌身離さずしているという行動からぼくの感動はくるものではなく、老人が訳のわからないプラカードを首から下げている絵が、如何にもセンチメンタルで、物語=小説とは関係なしに、直截的に対して悲哀を与えてしまうものだからに、やはり過ぎないのではないかとぼくは思う。(若しくはその絵の悲愴感が強烈過ぎる)*1
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技術的なことを少々。
この小説を読んだ限りに於いて、小川洋子がうまい小説家であるとはぼくには思えなかった。自分自身の理想とする文体のパターンにかまける余り、本質的な流れのなかで、どこでどれを盛り上げ、どのようなものに対してレトリックを使うべきか、作者自身でしっかりと区切りをつけていないと思う*2。後半部分ではそのレトリックでさえ、定型的でただ五月蠅いだけの有り触れたものになってしまっているし(しかし逆にいうと、この紋切り型の美辞麗句はこの小説に本来つかわれるべきレトリックの姿かも知れない)
最後は明らかに、作者の狙いではなく、作者の失敗だろうとも思う。
とあるが、以後の物語の展開の中で、そのような印象を正直得ることは出来ないのではないかと思う。
<上記の続き>
豪華でもきらびやかでもいという点においては、母子寮の一室で迎えた一歳の誕生日や、二人だけの七五三や、お祖母さんと一緒のクリスマスと同じだった。もっともこうしたイベントをパーティーと呼ぶのが適切かどうかはよくわからないが、それでもなお、ルートの十一回目の誕生日が特別だったのは、やはり博士がいてくれたからだった。そしてその日が博士と過ごした最後の夜になってしまったからだ。
絶頂期からの墜落という展開で終わらせるはずが、(そうすることによって、多少物語の展開からの感動という、小説内のものが付与すべき感動を読者に与えられる余地はあったのだが……)絶頂期をうまく描けないまま、墜落という形になってしまって、落としどころを失った終わりのようなものになってしまったのではないかとぼくは思う。もしも形式としてそれが成功していたのなら、わざわざ最後に江夏というひとつの象徴だったものを持ち出して、それを描写して読後感を宙に浮かす(誤魔化す)必要は恐らく生じなかったのではないだろうか。
──背番号が見える。完全数、28。
小説として、このような足の付け所のない終わりや、大事な場面で挿入される割に、それに対しての執着になんの説明や物語もないのは、やはり全体としての、この小説をより一層弱いものとしているように思える。