近況、現況。

 某日、その前日に小説を書き終えたぼくは本屋に行ってから適当な本を物色して、デパートの地下食品売り場で切らしていたオリーブオイルとトーストに塗るバターと幾つかのチーズと台所洗剤を買った。駐車場を出て駅前の混雑を抜けて市街地を走り出すと、突然自分のどこかでなにかが浮ついているような感じに気付いた。車間に合わせてわざわざアクセルを踏んでいられないような、ハンドルを動かさずにじっと握っていることが、どうにもじれったいような感覚がどこかにあった。いつもの休日と変わらない行き先や、いつもと変わり映えしない白いビニール袋の中身が、なんだか酷く許せないような気がした。どこかに出掛けなければならないということはわかるのだが、どこにも出掛けたらいいのか目的地が浮かばない。
 圧倒的な開放感を自分が感じているのだと気が付いたのは、やはりいつもようにリカーショップに行ってワインセラーの冷んやりとした空気に触れてからのことだったが、苦笑いをしながらシャンパンのボトルを持ってレジに並んだ以外は、その日ぼくはなにもせず、どこにも行かなかった。
 例えば誰かを誘って食事に出掛けるとか、意味もなく贅沢な食材を買い揃えて、普段なら罪悪感を感じるほどの赤ワインを三本くらい開けてみるとか、真夜中過ぎにで車を走らせて暗い波止場で灯台の灯りを眺めながら助手席の子を口説いてみるとか、やろうと思えば、普段とは違い、幾らでも特別なことはありそうだったが、その日は自分一人でじっと家で過ごさなければならないと思った。
 書き終えたばかりの小説から、なにかしらの手掛かりや、手応えのようなものを感じていることは否定出来なかったが、その余韻にひとりで酔いしれたかったり、それについて実際的な検討をひとりでしてみたいと思った訳でもなかった。
 誰かと偶然出会ったり、外でお酒でも飲んでしまえば、多分ぼくは、
「昨日小説を書き終えた」
 ということを誰彼に口にしてしまって、──それがぼくにはとても恥ずかしいことに思えた。小説を書くことが恥ずかしいのではなく、評価のいまだ定まっていない小説を書いている自分を喋る自分が現段階で悔しく、恥ずかしいと思った。
 ”夢を見る”という言葉に肯定的な意味を見出せなくなった時期は具体的におぼえていないし、”夢を見る”という言葉の中に否定的なニュアンスを見つけ出してしまった切っ掛けも未だによくわからない。夢を語ることの無邪気さに嫌悪をおぼえるのも、未だに正しいことかどうなのか、突き詰めて問い詰められれば、正直ぼくには答えられない。
 ただしぼくは、”夢を見る”それだけの中には何もないのだということは、はっきりと言っておきたい。特に自分自身に。ぼくが”夢を語る”ことの中にいつでも見てしまうのは、それを語ること自体になにかしらのカタルシスや評価を求めることや、例え叶わなくとも”夢を見る”それだけで素晴らしいという考え方だ。
”小説を書き終えた”それだけで素晴らしいではないか。少なくともぼくには、そういう評価や慰め合いは必要ないと思った。小説はひとりで書くことが出来る。凄く当たり前のことだ。小説を書いていて、これほど強く思ったことはなかった。そして書き終えてから、ぼくははじめて、自分に真剣になにかしらの小説についての肩書きが欲しいと思った。なにかしらの肩書きが付けば、多分、恐らく、ぼくは小説とについて照れや衒いもなく、話しが出来るような気がする。
 シャンパンと買い置きのコニャックで酔った翌日からまた、新たな小説をぼくは書き始めている。
 
追伸
”文学”という言葉を見かけると、その言葉の遣われかたに最近妙に嫌な感じをおぼえることが多いが、それは多分上の後半で書いたことと同じなのか、と自己問答している。