結婚と恋愛は既に手段でしかない/『情愛』

情愛 [DVD]
 そんなことしている場合ではないのに、ついつい薦められたので観てしまった。無料でPCで観れるとはいえ、つまらなかったら途中で辞めようとも思っていたが、最後まで観て関心してしまった。韓国のことでもあるし、例のブームの際にほとんどドラマや映画も観たこともないので、”以前では”という区切りをぼくは年代的に引くことはできないのだけれど、以前ではこういった映画は韓国でも日本でも成り立たなかったのではないかと思った。いや、そもそもそういった着想自体が以前では存在しなかっただろう。
 詳しい年代特定やそれに応じての呼称など、ぼくにはよくわからないが、以前というものが一体なにを指すのかと言うことなら一応できる。

「未だ結婚というものが確固とした価値をその言葉に内包していて、結婚という制度が未来や希望や疑いようのない生活上の基盤をあらわしていた時代」「恋愛というもののひとつの終着点が結婚というものだと信じられていた時代」「恋愛というものが誰にとっても価値を持っていた時代」

──こう何度も時代時代と書くと、なんだか遠い昔のことのようにも思えるし、つい最近のことのようにも思えるし、ぼく個人だけで、未だに多くの人はそう思っているのかも知れないともなんだかぼくは自分を疑ってしまうのだが、それはともかく、──少なくともそのような価値観が既に崩壊していることをこの映画はうまくあらわしていると思って、感心してしまった。
 満たされない状態というのは言うまでもなく辛い状態をあらわす。こういうことを考えて、こういうことを言う人もいる。

「なにによって満たされないのか、なにが不足していて満たされないのか、それがわかっているということは、わからない状態よりもマシなことだろう」

 それは確かだが、わからないことよりも、わかっている方が辛い場合が時としてあるということもあるということも忘れてはならないだろう。つまり、わかっているからなにもしたくない状態や、結果がわかりきっているからなにかをやっても無駄だと思っている状況が、数多くあるということだ。──ちなみにそのような場合に、「やってみなければわからない」というような言葉は恋愛や結婚という言葉と同様最早きちんとした認識を備えた人間の前では有効ではない。「やってみなければわからない」という言葉はごまかしによって成立しているからだ。「そんなに悩んでないで恋でもしろよ」「結婚すればすべてが変わるよ」という言葉と同様に、そこにはごまかしという方法を薦める解決で成立している。「やってみなければわからない」という言葉には、本来それ故に悩んでいた物事の成否よりもその行動自体に価値がシフトするというごまかしがあり、無計画で無鉄砲な価値観ほどもてはやされるという傾向がある。また、それにより失敗したものを、誰かが必ず暖かく迎えてくれ、また時には励ましてくれ、あるいはある種の共同体が、その失敗者を成功者よりも丁重に庇護してくれるだろうという認識があり、ごまかしがある。それらが、ごまかしになってしまったのはある種の人々にとっては残念なことなのかも知れないが、最早それが有効ではないということはきちんと認識しなければならない。現在では、無計画で無鉄砲な人間は単なる馬鹿だと言われてしまう。ちなみに有効ということは、それを疑ったり、それに価値があると誰しもが思ったり、そんなものに価値はない、などと言う人間がほとんどいなかった時代ということだ。勿論どちらが価値があり、幸せな時代であったかなどということは別のことである。

 閑話休題。多くの社会モデルに、多くのごまかしがあることが露見してしまった”以前ではない”現代という時代に、満たされないものを満たすことは簡単ではない。ひとつの困難な例でいえば、「満たされないことがわかってしまう故に、それによりまた別の満たされないなにかが発生してしまう」こともある。この映画に大きなアイロニーと、悲劇と、わかっているもののはっきりとさせられなかった着眼点があるとすれば、それらの満たされないものに対して、今現在には満たすべき明確なものが、現実のモデルの中にはまったくないということがきちんとバックボーンとして備わっていることだ(この映画では既婚者の誰もがまったく幸せそうではないといった背景が結婚のモデル=自分が結婚したときの未来、としてあらわれている)。そういった状態にある時に、生活の中でなにかを満たそうと思えば、未だに結婚や恋愛というものと戯れるか、手段として頼るしかないという喜劇的で悲劇的な現実が剥き出しになっているのがこの映画なのだった。それ故この映画は基本的にねちねちとして煮え切らない場面が続く。だがそれらの中にあって、恋愛と結婚は最早希望に支えられたものではなく、冷淡な諦観に見定められた底や将来が見えてしまっている手段でしかないということがきちんと主人公ふたりの価値観としてあらわれている。結局いつまでも煮え切らないという行動をふたりが繰り返し、男が距離をとり続けるのは、それに絡め取られて、見え透いた将来に行き着いてしまわない為だし、女が男を誰よりも大切だといいつつ結婚相手と別れないのは、別れることに寄って手放さなければならいものが、自分にとって自分を成り立たせる為に必要なものだとわかっているし、男との生活ではそれらは手には入らないとわかっているから、週末婚という仮想であり続けたいのだ。それしか方法がふたりには見つからない。彼らの世界にあって勇気とは、愚かと同義なのだ。
 ちなみに恋愛と結婚が至上とされる勇気溢れる世界では、ふたりの接近とふたりの結合によりすべての問題がクリアされて終わりだっただろう。つまりこの映画は”以前では”成り立たなかったことになる。(ちなみにそういった映画では、その結ばれた後のふたりの生活が語られたり、想像されることはほとんどないということを忘れてはならない)

 出来の方はと言えば、多くの突っ込みどころがあるし、甘ったるくて観てられない場面や、ノスタルジックな価値観に従って撮られた映像が多いのだけれど(喧嘩をして投げつけた箸が灰皿の上でスローモーションで跳ねあがるというシーンなどセンスとして最悪だと思う)、そういった細部よりも、それらの背景というものをきちんと把握して、そういった人々が存在していることを映した映画もあるのだと、ぼくは思いの外、この映画に好感を持ってしまった。
 ちなみにこの映画でいう”写真”とは現実という場面では決して叶うことのない世界なのだ。

ちなみに以下のサイトの”映画”で無料で観れます。但しこの映画に関しては6/25(日)までらしい。
http://www.gyao.jp/

乱文にて失礼。