書き手の文学

個性などと言うフレームワークはそろそろ潰してしまう

問題は、そうした「面白みの無い存在」としての、つまり理念として演じられる自己や自我というのに則って物を考えたり書いたりするのは、ひどく簡単だということだ。ある書式を覚えこみ、それに適合する話題とロジックが一通りそろってしまえば、その後にやってくるのはわずかな文節の差異しか持たない、本質的には何一つとして違っていない、堂々巡りの同じ思考。しかし、読んでいる者はとにかくも、書いているものには、そこに費やした無駄な熱量の分だけ、何かが進歩したような気分だけはもたらされる。具合の悪いことに、手管が簡略化され、より効率的になればなるほど、脳味噌は死んでいくにも関わらず、「何かいいものが書けた」という変な満足感が生まれてしまう。多分、「筆が乗る」というのは、そういう状況を指している。乗っているときの筆は、僕ら自身の腕が動かしている筆ではない。
http://anotherorphan.com/2006/04/post_244.html

 いつも色々と触発されて、いつも糞長いコメントを書いて、いつも迷惑をかけてしまうので、こちらに。時間がないのですこし乱雑ですが。
 文学の定義。
 などというと、大事で大袈裟になってしまうが、仮にその『文学』という、なにかのお守りや、果ては書き手の言い訳に過ぎないなどと叱られがちなものを、便宜的に或カテゴリーを指す言葉として、文学である小説/文学ではない小説、というものにわけるとするならば、──ぼく自身はそのようなものにカテゴライズすることを賛成するということをまず明らかにしておくべきでしょうし、ぼくは文学は存在すると思っている人間です──その際に、参照する項目というのは、大まかに言えばぼくは『逸脱』というものだといまは思うのです。(勿論これはぼくの個人的なカテゴリーの仕方で、そもそも文学など存在しないという方もいるでしょう)
 ここで言う逸脱とは、あるひとつのシステム──それは例えば道徳であったり、倫理であったり、社会的に模範的な類型であったり、既存の小説であったりする訳ですが、重要なのは何故そのような逸脱が文学たり得るのか、その問いの形を変えれば、なぜ文学にはそのような逸脱が必要であるのか。ということでしょうが、
 ──「その問い自体を、問うという行為が文学である」
 などという答えもあるかと思いますが、翻って、ぼくがこの場で大事にしたいのは、『書く側』にとって、文学とはなんであるのかということで、もう少し実績的にいえば、それは書く側にとってどのように分け入っていくべきなのか、いま自分で書いているものは、どの茂みを掻き分けているものなのか、山なのか海なのか。まずはそこからはじまるべきものなのでしょう。(大略)
 結論から言ってしまえば、
 逸脱したものをしか書けないか/逸脱しないものしか書けないか
 すべてがこの問題でしかないといまぼくは思っています。
 
 (大略)した部分を言えば、勿論、そこに優劣は存在しないし、苦痛などというレベルで比べるべきものでもないでしょう。逸脱しない必然性は作家個人の倫理や道徳や問題意識や理念に支えられているのだろうし、逆に逸脱してしまう必然性は、作家個人の含羞や疑念や問題意識といったものに支えられているのだろうけれども(勿論そればかりではない)

きょう、ママンが死んだ。もしかすると昨日かも知れないが、わたしにはわからない。

まさしく五月、いとしい五月! 深々と息を吸い込めば、ここではなくどこかの空の下、木立の上、遠い郊外の野原や森に、罪深く弱い人間には思いも及ばぬ春の生活が、神秘的で美しく、豊かで清らかな生活が今や繰り広げられているのだと思いたくなる。そしてなぜか泣きたくなるのだった。

1996年の、春だった。
その日、3年になって最初の一斉テストが終わった。ぼくの、テストの出来は最悪だった。一年、二年、三年と、ぼくの成績は圧倒的に下降しつつあった。理由はいろいろある。両親の離婚、弟の不意の自殺、ぼく自身がニーチェに傾倒したこと、祖母が不治の病にかかっていたこと、というのは全部嘘で、単純に勉強が嫌いになっただけだ。

 その逸脱が、その個人にとって、本当に必然的な逸脱であるのか、その個人がまさにそこに描かんとしているものに必要なための逸脱であるのか、それを確認しながら未知の道(逸脱の先は未知)へ分け入っていくことが、文学ではないのか。ぼくはいまそう思っているのです。*1
 そしてぼくが小説を読んでいて胸をときめかすのはそのような逸脱が生じた瞬間だと自分で思うのだ。

*1:そしてそれは文体という最小のレベルで、既に起こっているのではないかとも思っての引用。勿論ここには逸脱した先のことをコントロールする力というものが必要でしょうし、逸脱がある種のひとつの必然=纏まり※を持たなければ、それは小説として、弱いものになってしまうでしょう。いや、小説にすらならないでしょう。そしてその逸脱した先が既存のなにかの媒体であれば、それは文学である必要はないし、文学と呼ぶ必要もない。そしてそこで、行き詰まって交錯してしまってはじめて、オリジナリティーとか才能の問題がでてくるのだろうし、直喩的に中心のなさを問うて嘆くことや、自分には書くことがない。という思索の終点が、ぼくには既に定型化してしまったパフォーマンスやクリシェや都合が良い(これさえ言っておけば文学になるというオチ)言い訳にしか、喩え本当にそう思っていても、もう思えないのです。なんだか手厳しいけど、そういうものが読みたいといひとりの小説好きの意見です。そして、多分そういった方向に今の文学という方向がススムのではないかという楽観的、希望的、予感のようなものがぼくにはなぜだかするのです。一種の反動として。※例えばその登場人物の無意識や説明は出来ないが必然だと思える行動様式を支えるものといったような入れ物で