書くことと文学、純文学はどこに存在するのか。

 ブログを書き始めてぼくはブログの強制力というものを知った。なにかを書かないと後ろめたいような、申し訳ないような気がしてくるのだ。書く。という行為は、おかしなもので、本当は主張したいことも、なにかを強烈に伝達したいわけでもないのに、誰にでも出来る。なにもぼくは、書く、という行為を神格化したいわけでも、神秘化したいわけでも、ある地点から特権化したいわけでもなく、ただ言葉を連ねるそのもののことに関して言いたい。単純に言えば、お喋りと、情報の違いとでも言えばいいのか。お喋りの主眼はコミュニケーションにある(一応ここでは言い切る)、大抵の場合、その言われている内容の信憑性や言説それ自体の価値についてまで言及するのは、所謂無粋である。それは勿論、両者に”お喋り”という、ある種の緩い空間が現出しているときに限るのだけれど、問題はお喋りをしたくて、尚かつ、。それが直接”書く”という行為と繋がってしまったときで、しばしばぼくらは、書くという行為と、お喋りという行為の根源的な違いを忘れてしまう。

”書く”ということをぼくは特権化したくないから、書くを”小説”としてみよう。いや、もっと狭めて、尚かつ自戒も含めて例の”文学”という言葉にしてみよう。
 
 文学。という行為は、おかしなもので、本当は主張したいことも、なにかを強烈に伝達したいわけでもないのに、誰にでも出来る。なにもぼくは、文学、という行為を神格化したいわけでも、神秘化したいわけでも、ある地点から特権化したいわけでもなく、ただ言葉を連ねるそのもののことに関して言いたい。単純に言えば、大衆小説と純文学の違いとでも言えばいいのか。大衆小説の主眼はその消費にある(一応ここでは言い切る)、大抵の場合、その内容の信憑性や所謂人間性についてまで言及するのは、所謂無粋である。それは勿論、読み手と書き手に”大衆小説”という、ある種の緩い空間が現出しているときに限るのだけれど、問題はなにかを書きたくて、尚かつ、それが直接”文学”という行為と繋がってしまったときで、しばしばぼくらは、文学と書くという行為の根源的な違いを忘れてしまう。
自戒をこめて。