絲山秋子の滑らかさ/『沖で待つ』

沖で待つ

沖で待つ

ある程度の物語の流れと、構造まで言及しないと、一側面でしかこの小説について書けないので、以下からネタバレぎっしりです。

内容説明
仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。そんな同期の太っちゃんが死んだ。約束を果たすべく、私は彼の部屋にしのびこむ−。仕事を通して結ばれた男女の信頼と友情を描く表題作のほか、「勤労感謝の日」を収録。以上Amazonより。
本文より
「HDD?」
「ハードディスク、パソコンの」
「ああ、それやばい。私もやだ」
約束とは死語に残った互いのパソコンのHDDを壊すこと。

同本集録の『勤労感謝の日』はまだ読んでいないので、絲山秋子の小説を読むのはこれではじめてになる。随分とつるつるとしていると思った。つるつるというよりも、のっぺりとしていると言った方が、より感想に近づく。あまりにも表情のないひとを書くと思った。表情のない、ということは誤解に繋がる言い方だけど、それは刺激に対して希薄な人間という、世界とのひとつの関わり方の問題として描かれた”希薄にならざるを得ない人間像”ではなく、世界との関わりに於いて、あまり自分自身の成り立ちや、生活に疑いを持ったことのない、”いわゆるステロなタイプの人間”を、本当にするするとした感じで書いてしまってあると思った。

 <改行後、土地の説明として、以下の文章がはじまる>
 福岡の食べ物がおいしいと言われていたのは本当でした。家庭料理は食べたことがないのでわかりませんが、魚介だけではなく水炊きやもつ鍋や、焼き鳥屋の豚バラや東京よりずっと小さくてかりかりの餃子など、みんなで食べるおいしいものがたくさんありました。

ここで唐突に『みんなで食べるおいしいもの』という言葉が入るのだけれど、これ以前に、なにかしら人間関係に於ける輪のようなものが出てきたり、主人公である私にとって、『みんな』というものが、なにか特別であるということも明示されないままに、出てくる。つまり、ここで語られる『みんなで食べるおいしいもの』というのは『みんなで食べるものは、おいしいに決まっている』というひとつの価値観の顕われとして書かれているのだけれど、そのすぐ次にこのような文章が続く、

若かったから休みの日は海水浴がてら海辺でバーベキューをしたり、釣りに行ったりもしました。

なんだか、小学生の作文みたいで酷く窮屈で、退屈だ。それはつまり、そのような性格を持った人が、そのようなものの善し悪しに疑いもないまま書いた文章だからなのだが、(でもそれは実は作者自身の声ではなく、”ひとつの設定”なのだけれど。その部分と、そう思う理由についてはあとで触れます)。
 ちなみにぼくがこんな細かなところを引用して、揚げ足取りみたいに指摘しているのは、この小説の職場のシーンや、現場や、同僚や上司との遣り取りが、上記のまま、如何にも凡庸で退屈だからで、それはなぜかというと、上で書いたように、ひとつの典型的な価値観に添った人間が書いたものを、そのままなんの批評性もなく(ここで言う批評性のなさとは、そのようなステロな価値観を仮に閉じた嗜好・思考と呼ぶならば、それから他に逃れていく可能性、それから他に読み手が、読める可能性のなさ)、書いてあるからなのだけれど、それをわざわざ文学という場所で展開する価値、必要は、まったくないと思う。はっきりと言ってしまえば、この小説は、三分の二以上がそのような形の手記で占められていて、それはこの小説を、退屈で凡庸で、ほとんど救いのないまでに薄くさせてしまっている。
 以下、太っちゃんの結婚相手である井口さんが、鈍重な太っちゃんをなぜ相手に選んだのかと聞かれて答える言葉。

もっと、田代とか、福島さんとか、いい男いるじゃんよ。なんでよりによって太っちゃん。
「ビビっときたのよ」

もうすこし踏み込んで欲しいと、率直に思う。

建築のこともろくに知らず、建築用語と福岡の方言の区別さえつかない私をお客さんはときに叱りましたが、思い直せば辛抱強く接してくれる方が多かったです。私を育ててくれたのは会社の先輩よりも、現場のひとたちでした。だって、事実は現場にしかないのですから。

 以上の文章も、興ざめするような言葉なのだけれど、ぼくはさきほど上の()のなかでこれは作者の”ひとつの設定として”と、書いた。つまりこの小説はこのような”典型的な価値観に疑いをもたないものが書いた文章”という形で、他のものを成立している小説なのだけれど(そういった意味から敬語の妥当性は一応保たれている)、なにが成立しているのかというと、逆にそのような、”自分に対しての批評性のなさ”が、言葉に対しての執着を生み、その言葉だけの価値に縛られ、ときにはそこに縛られることを望み、本来そこにあるはずの感情や関係を、意識的、無意識的に、その言葉内に収めようとしていることなのだけれど、その言葉とは、以下の部分からもっともよくわかる。

終盤より。わたしと幽霊の太っちゃんとの会話。
「同期って。不思議だよね」
「え」
「いつ会っても楽しいじゃん」
「俺も楽しいよ」──略──
「楽しいのに不思議と恋愛には発展しねえんだよな」
「するわけないよ。お互いのみっともないとこみんな知ってるんだから」
 でもさあ、夏目は石川とやったらしいよ、と言いかけてやめました。

その次に、『たとえ、相手が死んでいたって、秘密は秘密です。』という言葉がはいるのだけれど、問題は、『でもさあ、夏目は石川とやったらしいよ、と言いかけてやめました。』という言葉を、なぜそのときわたしが思い出して、言いかけたのかということで、つまりわたしは、同期以上の関係を太っちゃんと持つことを無意識的に望んでいたか、どこかで意識していたからで、その次の言葉からも、同期という関係以上の感情を持っていたことが確実にわかる。『死んでも、同期は同期なのですから』どこか後悔のような、諦めた感じが入っていて、淋しい。その淋しさは、やはり同期という関係以上のものをどこかで望んでいたことから来るものだけれど、上で書いたように、わたしは同期という言葉から、抜け出すことが出来なかったという構造が、わたしの淋しさを強調させている。ひとつの、そのような”自分に対しての批評性のなさ”に対する批評が生じている。 ちなみに、この部分がこの小説に必要なのかどうかぼくはよくわからないのだけれど、相思相愛(なんか恥ずかしい言葉だなこれ)だったかも知れない可能性が、詩の部分で暗に示されているのではないかとぼくは思う。恐らくそれ以外にこの部分の必要性がよくわからないので、太っちゃんのHDDのなかには、この手の詩が、”わたし”宛てに入っていたのではないかということを以下の部分でにおわせていると思う。

「珠恵よ/おまえはおおきなヒナゲシだ/いつも明るく輝いている/抱きしめてやりたいよ」(珠恵というのは太っちゃんの奥さんで、線香をあげに来たあと、太っちゃんの奥さんから、その詩が書いたノートをわたしは見せられる)──略──
 この手が太っちゃんのパソコンにぎっしり入っていのか。私があんなに冷や汗かいて、涙まで流して、危険を冒して壊したハードディスクに入っていたのはこの箱だったのか。参ったな。
 参ったな、というのが感想でした。それなのに、このばか野郎は家にこんなノートを残して、それじゃ私って完全に無駄手間じゃん。

 それから、この次の文章でこの小説の題名の詩が出てくる。

「俺は沖で待つ/小さな船でおまえがやって来るのを/俺は大船だ/なにも怖くないぞ」
大船かよ。しかし沖で待つという言葉が妙に心に残りました。

 そうして、わたしが冒頭アパートに立ち寄った理由というのか、動悸のようなものが、この詩が出てくることで暗に示しているのだけれど、これにより絲山秋子は、亡霊という非現実的なものに対しても一応の理由を付けている。(この詩を読んだわたしの妄想かも知れない)。それから、沖で待っていたのは、珠恵さんではなく”わたし”だったという、相思相愛の可能性をも含ませている。でも正直言ってしまうと、そういったいわば小説の構造を組み上げる巧みさは確かに優れているとは思うのだけれど(でも、どちらかというと、この小説では、それは貼り絵のような薄いもので出来ている。たとえばわたしの窃視が亡霊となった太っちゃんから終盤指摘されるのだけれど、これもまた他の詩の部分や、沖で待つという言葉とおなじく、物語そのもののダイナミズムとは関係なく、また人を描くために必要な要素などでもなく、『わたしという人間が、目の前の手の届く人よりも、遠くの手の届かない人により特殊な感情を持つ』ということの、単なる貼り付けたような帳尻合わせにしかならない。若しくは作者の窃視という文学的な厭らしさを単に狙って挿入したもの)
 はじめにも指摘したのだけれど、やはりこの小説のどうしようもないところは、そのような構造をつくり出すために、作者のなかで必要な人格だったとはいえ、それをそのまま、書いてしまったことにあるわけで(しかも三分の二も)、そのつまらなさは、ほとんど圧倒的に読み手のなにかしらを殺いでしまうように、この小説では作用しているような気がしてならない。作者は構造上の矛盾というか不足のようなものには過度に敏感なのだけれど、もうすこし踏み込んだ小説というものが書けないものだろうか。そういった自分のどうしようもなさみたいなものを、小説として書けないものだろうか。ぼくはこのひとのそういう局所しか目に入らない完璧主義というか(全然完璧主義ではないけど、本人はそう思うからおもしろい)、偏ったどうでもいいこだわりや、実は相当に読者を意識しているおもねりが、すごくおもしろいと思うのだけど。
 ──捕捉──
 この小説の同僚という執着が、過度の執着として見られないのは、それが与えられたものでも、獲得したものでもなく、否が応にもラベルのように付着するものだからだろう。但し、そのラベルはそこから違う関係に発展することで、もともと剥がすことは出来ないが、あたかもそれがどうでもいいことのようか、剥がれたことのように思うことが出来る。つまりこの小説でいえば同期からもっと違う関係になるということなのだけれど、そのような関係に発展しないこの小説は、どこかしら煩悶のようなものを技法として隠していて、それなりの陰影を与えていることに成功している。