Chateau Griffe de Cap D'or 2001

 ああ、伊東さんが今日はお休みだから、なんにも言えないのだと思った。なんにも言えないの前に、あまり話すこともなかったので、話したくはなかったのだけれど、それでも美容師というのはよく喋る。ハサミを仕切りに動かし、鏡越しに、ちらっ、とこちらを見て、それからひとことふたこと言って、また、ちらっ、とこちらを見て、ひとことふたこと言って、こちらが面倒くさくて相槌だけを打っていても、また笑顔でひとこと、ふたこと言って、襟足なんかをハサミの先で、小刻みに切りながら、笑顔でまたなにかを言って、終いに無視をしていると、痒いところございませんか? などと見当違いのことを言ってくる。ああ、伊東さんがお休みだとわかっていたら、今日はこなかったのに、と思いながらも、ぼくはじっと坐っていた。いつもより切られ過ぎな、耳の上の辺りを見つめて、溜め息をつきたい気持ちになる。三日、いや、伸びるまで一週間。剥き出しになった耳の上を見つめて、真新しいスポーツシューズを履いて人ごみを歩いたような、居心地の悪さを感じる。真っ白い靴に包まれた両足を見て、飛び跳ねるように嬉しくて仕方なかった。などというのは、けしからん嘘である。派手な麦藁帽子を被って、通りを歩かされたみたいに、気になって仕方がなくなる。恥ずかしくって、今日は帰りにDVDを借りに行くのはやめようかと思う。そう思うと、頭の後ろのあたりも、妙にすうすうとしてきたように思う。思わず床を見つめて、どうかしました? と訊かれて、いいえ、と応えて、それからもう一度、今度は鏡をうまくつかって、床を見て、なんだか、とても憂鬱になる。宇宙に放り出されたような気持ちになる。ちょっと、切り過ぎじゃないの。ちょっと、このひと新人じゃないのか。店長の伊東さんを探すけれども、今日はなんだか家の都合で急にお休みだとかで、はじめから居ないのであった。川越、と名札に書いてあるけれど、見たことがないひとだ。しゃり、しゃり、しゃり、とハサミはいい音がするのだけれど、時折ちょっと顔を離して、難しい顔をするので、とても不安になる。もうすこし顎のラインが寂しげだったら、さぞかし男にもてるだろう、と失礼なことを考えていると、つむじの辺りをぐっと両手で挟まれて、ぐいっと頭の位置をなおさせられた。二ヶ月ぶりですよね? と訊かれて、ええ、まあ。と割かし不機嫌に応えてから、前に来たときも居たのか、と思った。
 高級ホテルにあるビデの形に似た、洗髪台を引き摺ってきて、椅子を倒された。頭を洗われた。洗う前に合わせ鏡で後ろを見せられたら、それ程でもなかった。多分となりの女の子だろうけれど、洗髪中だから手の空いた川越さんとなにかを談笑していた。よく聞こえなかったので、薄眼を開けると、とても眼にしみた。ドライヤーで乾かしてから、わざとくしゃくしゃにするみたいにして整えられ、立ち上がったときに、ふと見下ろすようになってから、ようやく昔から、お店に居るひとだと気付いた。
 家に帰って御飯を食べていると、Kさんが、ワインを買って来た。サンテミリオンのシャトークリフ・ド・カップ・ドールという長たらしい名前のワインは、ほのかにコーヒーとバニラの香りがする。細やかさが、とても素晴らしいワインだと思った。いわく、ワインコンサルトのミシェルロラン氏と、ヴァランドローのオーナーテュヌバンさんが造った、とてもありがたいワインだという。コストパフォーマンス抜群だと、不承不承Kさんは値段を言った。美味しいものを、ご馳走すると、誰もが喜んでくれる。それなのに、ひとりでそのときのことを想像していると、なぜだか自分が卑しい人間であるような気がしてくる。寂しくなってくる。そんなことをKさんは言う。恐ろしく退屈な映画を観ながら、修行のような心持ちでふたりでそれを観終えたあと、Y君にも飲ませてあげたいと思った。なかなかに味のわかる男なのである。Kさんは自分で買ってきたからか、高い、だことの、ラベルが気取っている、だことの、今日は言わない。素直でないのである。
「美味しいお酒くらい、一心に、寡黙に、ひとりでまわりのことなど知らぬ存ぜぬで、超然と、味わえないものだろうかね」そんなことをぼくのグラスに注ぎながら言った。まったく、そのとおりである。<了>