文体について

 難しい問題ですが、敢えて触れます。
 文体を模倣すると、展開までトレースしてしまう。これはかなり重要なことではないか。こと、というと核心が見えてこないから、ここでは敢えて問題といってもいい。文章を書く際に文体を模倣すると、展開までトレースしてしまうのは、なにかを書く側にとっておおきな問題となるのではないか。ということだ。ぼくはある程度の文章を読むときに、必ず頭のなかで声を感じる。声、音ではなく、つまり声質のことで、それぞれの文章にはそれぞれ専属の朗読者がいるみたいなる。女性が書いた文章なら女性の声を感じるし、男性の書いた文章なら男性の声を感じる。一人称の主人公が男性だと思っていたときに、女性だとわかって、脳内で声が裏返って、そのまま女性の声にとって変わることもある。文体とは、つまりぼくにとってはVoiceのことだろうけれど、それはあくまでも読み手のときのぼくのことだ。(ひょっとしたらぼくがここでいうvoiceとは、ひとによっては、ある厚さの板が見えて、その模様や質感の違いのことなのかも知れないが)
 さて、話しを振り出しに戻そう。文体を模倣すると、展開までトレースしてしまうのはなぜか。多分、模倣する側の声をなぞる/真似るように、文章を書くからだろう。では、声とはなにか、ここからが、複雑いなってくる。センテンスの長さ、句読点の使い方、単語の配列から、言葉遣いの選択。ありとあらゆる要素で、声は出来ている。これは多分間違いないことだろう。でも、その声を真似る、すると、どうしてあたかも思考・嗜好・指向までがトレースされたように、相似してしまうのか。見逃してしまうといけないことがひとつある、模倣するという段階に於いて、それは既に含まれているのかも知れない。つまり、模倣そのものが、文体だけではなく、展開までトレースしてしまおうという欲望に染まっている行為もあるだろう。でもそればかりではない。ぼくはそう思うから問題だと言っている。さて、また振り出しに戻ろう。でも、振り出しは、もうおなじ振り出しではない。文体を模倣すると、展開までトレースしてしまう。展開までトレースすることを回避しようとしているにもかかわらず、展開まで似てきてしまうのは、書く際におおきな問題だ。ちょっと飛躍します。
「なにかを書くという行為には必ず読む/読まれるという行為が意識されている」これはよく言われることだが、「書くという行為には必ず人格が意識されている」これはあまり言われない。けれども書くという行為のなかには、読むという意識が潜在的に含有されている段階で、既に実は人格という設定が含有されている。要するにそれを書く際にどのようにそれを読んで貰いたいか、有り体にもっとざっくばらんに言えば、わたしはどう思われたいか。意地悪な言い方をすれば、なにがどう正しいか主張して、わたしはどう思われたいか。ということだが、それがつまり、ぼくがここでいう人格のことだ。
 ちなみに、小説を書くという段階で必要な”切断”とは、書き手である作者の他に、それをどう読ませたいか、という単純な欲望や設計のことではなく、もっと立体的で、あたかも読んでいる側が、それを書いた側の人格を把握できるような、作者とは切断された人格を作り出せるかどうかではないかとぼくは思っている。そこではじめて作者と小説は切り離される。──余分なことだが、その人格をビデオカメラやフィルムといった直接的なものに置き換えると、ご存じの人がまったく描けていないといわれる小説や、作者自体の狡猾さや意図が透けて見えてしまう(それが楽しいというひともいるが)──作者そのものの意図にダイレクトに繋がってしまう、つまりそこには人という造詣ではなく作者の意見や主張や意向や手並みしかない──小説ができあがる。人格を無意識と言ってもいい。小説家という像は、なにも読者によって、暫時的に立体的に立ち上げられていく、ということばかりではなく、小説家によってもある程度、書く段階に於いて予期して、創り上げられることも出来ているのではないか。──しかしそれは小説家がその小説が如何に読まれるかということをある程度予測コントロール下に置ける巧みな場合なのだろうけれど。
 ちなみに最近ぼくがつくづくづ思うのは、読むという行為の方が、実は書くという行為よりも、孤独で淋しいのではないかということだ。

バトントン

id:ryotoさんからバトンをいただきました。

1.好きな音楽ジャンルは?(複数でも○
クラシックとジャズを少々です。

2.そのジャンルで好きなアーティストは?(3個くらい)
特に思い入れがあるのは、ブラームスです。(というか文学好きのひとって、ブラームス好きおおくない? ひとりごとです)ジャズでは最近エディ・ヒギンズ・トリオ、akikoという女性ボーカルをよく聴いています。歌唱力は一流とは言い難いですが、声が割かし好みです。芯が強すぎないし、キュートだけど、甘過ぎないし、コケティッシュと言うほどでもないけど、どこかあどけない感じがGoodです。まあ、一応。以下視聴できるところでございます。
akiko Mood Swings
http://www.universal-music.co.jp/jazz/j_jazz/akiko/ucgj7001.html

3.そのアーティストで好きな曲は?(各一曲ずつくらい)
ブラームスソナタもいいのだけれど、やはり交響曲第四番

4.これだけは聞いてみろ!って人に勧めたい曲は?>
ブラームスはやはり雨の唄とハンガリー舞曲の第二番
あとは割愛。

5.踊るときに一番聞きたい曲は?
ハチャトゥリアン/剣の舞 熱いです。

6.チルアウトするときに一番聞きたい曲シューベルト/弦楽四重奏曲 第13番「ロザムンデ」 チルアウトしすぎて悲しくなります。

7.いやらしいムードを高める曲といえば?
ブルッフ/スコットランド幻想曲の第三楽章 感傷的です。

8.朝方に聞きたい曲は?
バッハ/ふたつのヴァイオリンのための協奏曲 実はバッハはヒラリーハーンがすごくいいんですよ。内緒ですが。
http://www.universal-music.co.jp/classics/special/hilary_hahn/uccg1161.html

9.夜中に聞きたい曲は?
ケージ/4分33秒 寝かしてください。

10.次にまわす人は誰?
最近ブログはじめた方で、ぼくがよく巡回する先の(勝手にすいません)
id:uripouripoさんと id:nora_rさんへ
はじめてのご挨拶もせず、こんな形でご挨拶を済ませて申し訳ありません。

もし面倒だったらスルーして下さい。突然ですいません。

入浴時の出来事

風呂に入って、湯船に沈んだ足先をじっと見つめていると、もっと近くで見てみたいような気がした。足首を掴んでから、顔の前に近づけてみた。随分と変な形だと思い、そのなかでも、特に一番大きな親指が変だと思った。横から見ると、茹でた空豆にも似ているし、裏から見ると、蛇の頭の形にも似ていると思った。どんな味がするのか、とりあえず、口に含んでみようと思った。爪はつるつるとしていた。舌に触れると、きっと冷たくて心地よい感触がするに違いない。足先をぐっと近づけ、口を開けた。無理な体勢になった。流石にこれはまずいと思った。味がまずいのではなく、体勢がまずい、というわけでもなかった。自分の足をどうして自分でしゃぶるのか、それがとても変なような気がした。なんだか悲しくなった。自分がとても不幸な人間になったような気がした。足首を離し、湯船に戻った足先を、沈んだことを確認するように眺めた。親指は身体を動かすとゆらゆらと揺れ、また、口に含んでみたいと思った。
 洗ったばかりだったので、恐らく味はしないだろう、いったい口のなかに、どんな感触がするのか、親指はどんな触られ心地がするのか、それが気になった。想像してみると、自然と、舌が歯の裏にくっつき、どきどきとした。じっと奇妙な親指の形を見れば見るほど、興味が沸いた。もういちど足首を掴み、湯船の上に、杭のように足を突き出してから、やはり、まずいと思った。
 白々しく目を逸らし、蛇口を捻ってお湯を足した。じゃばじゃばとおおきな音を立てて、湯を掻き回し、湯船の中で拳を握って素振りをしてみたりした。他のことを考えようと思った。考えることがおぼつかないなら、九九でもしようと思った。三の段まで九九をしてみて、ようやくなにかが静まったような気がした。もういちど湯船を覗いてみると、やはり、まだ、口に含んでみたかった。
 親指は他の指に比べると爪が異様におおきい、ぎゅっとお尻を押されて、指のなかにめり込んだような形をしている。指の先よりやや長いところで弓なりになり、波打ち際のようにカーブを描いて、泡が砕けたように、白い縁取りをしていた。きっとつるつると心地よい舌触りに違いない、と思った。ざらざらとした厚い皮の感触が、口のなかで気色良さそうだった。きっと、幸せな気持ちになれるに違いないと思った。指の横腹はすこし硬くなっていて、瘤のようにやや突き出て黄色く変色していた。
 湯船から出ると、体重計には乗らずに、髪を乾かした。足先を見ないように身体を拭いた。蛸の話しを思い出した。生け簀や水槽に入れた生きた蛸は、自分で自分の足を食べてしまうという。たぶんストレスだろうと、聞いたのだけれど、なんだかぼくは怖くなった。服を着るまえに、先に靴下を探した。こういうとき、靴下の片側はなかなか見つからないものなのだけれど、思わぬところですぐに見つけた。その場で行儀良く屈んで、靴下を順に履いた。なんだかほっとして、しばらくのあいだ、それで過ごしたいような気がした。

自意識過剰と演技/『セックスと嘘とビデオテープ』

 扱ったのは無意識で、それが矛盾に顕われる。

「最近、夫に触られるのがいやなの」では、夫婦関係は?「別に悪くないわ」アンにとって夫婦にセックスはなくともよいものだ。「おとこはセックスを過大評価しすぎなのよ」

 セックスとはなにか? ビデオテープとはなにか?
 さて、そんな下らないことは放って於いて、ぼくはこの映画を初めて観たときに、なんて下手な役者たちなのだと思った。主にアンディ・マクダヴェル演じるアンとジェームズ・スペイダー演じるグラハムのことなのだけれど。(でも、スペイダーはカンヌ映画祭で主演男優賞を貰っていることは知っていた)監督のソダーバーグにはなにかしらの演技に関するオブセッションがあって、例えばグラハムが夕食時に持ち上げるスプーンの動きひとつにしても、アンがアパートを見学に行った際のクローゼットを開ける動きに関しても、まるで筋肉単位で動きの指示を出しているようなぎこちのなさが、常に演者の側に付きまとっていた。素人芝居のような、どこか変な居心地の悪ささえぼくは感じはじめていたのだけれど、喫茶店で突如として居候してきたグラハムにアンはこう言われて、ぼくは目の前がくらくらとした。「きみは自意識過剰なんだよ」ぼくは落ち着かなくなった。自意識過剰とは、つまりそういうことだからだ。「始終誰かに見られているみたいだよ」とグラハムは続けた。そういうグラハムも自意識過剰のように、身体の動きのひとつひとつが大袈裟に意味と接続されていた。でもそれは無理もなかった、彼は演技をしている人物を演技していたからだ。
 さて、そのときのぼくの大事なところは、自意識過剰と演技だ。自意識過剰とは誰かに見られていることで、誰かに見られているから、演技をする。つまり、見られることと、演技の関係をぼくは突然映画で指摘されて、呆然とした。それも付き合ったばかりの彼女と見ているときに指摘された。でも、実はそれではまだ浅かった、どうしてぼくは演技をしなければならないのか。それこそが重要で、ぼくにとって触れられたくない痛いことだった。素の自分は見せたくないし、好きなひとに素の自分、ほんとうの自分を嫌われたらショックだし、だって話しが拡大して、みんなにそんなこと知られるは恐ろしい。有り体にいえばぼくは誰にも常にいいひとに見られたかった。過去形で書くと、なんかまた昔話だ。いや、過去なのだけれど。ぼくの目眩が長かったことと、ほとんど映画の内容をおぼえていないことを覚えている。アンが飲んでいたワイングラスの縁を撫でたり、脚を無意味に掴んだりするものだから、ぼくは飲んでいたワインも、口にできなかった。それにしてもよくワインを飲む映画だとぼくはぎこちなく肩に手を回しながら思った。
 でも、自意識過剰な為には、あらゆる演技がどのような効果を相手に与えるのか知り尽くしていなければならない。唐突だけれど。そうなのだよ、明智くん。はっはっはっ。

──追記──

いや、すぐに気が付いたけれど『宗教家を描いた小説であるか、宗教家が描いた小説であるかの違い』というのは、そんなはっきりとしたものではなく、極論してしまうと、結局は個人の嗜好の問題になってしまいそうだけれど、敢えて踏みとどまって考え続けて、いかにすれば、自分の書いたものが、よりおおくの人間に小説として成り立つのか、つまりは小説として届くのかという意識を持ち続けていなければ、ならない逆に言うと小説家であるための条件なのだろう。

綿矢りさから感じる恥ずかしさ/『You can keep it.』

 インストールをようやく買って読めた。といってもタイトルの方はまだで、おまけのように付いている『You can keep it.』から読んだ。インストールのはじめの二、三ページだけを読んだのだけれど、よくこれで新人賞の予選を通過したなと思った(作品とは別のところで出される評価基準で通った、というようなことを言われるようなことをいわれても、まあ、おかしくはないと思った((ぼくは特にそんなものどうでもいいけど)))。それと関係があるのかも知れない。『You can keep it.』を読んでいると、恥ず:かしくて仕方がなかった。小説に限らず、なにかを読んでいて、恥ずかしくなることはよくあることだけれども(そもそも他人に書いた物を読まれることはとても恥ずかしいが、それは置いて於いて)、その源泉こそが、小説の問題で、つまりなにかしらの価値があるとするらならば、恥ずかしさを感じたというただ受動的なもののなかではなく、どのような意図や、どのような方法でその小説が人に恥ずかしさを与えたのかということを探らなければ、その小説の価値(アバウトだけれど”善し悪し”)は評価できないとぼくは思っている、というか思いたい。それは例えば、小説のなかの”死”というものにも言えることで、どちらかというとぼくはこちらの方に、いつでも強い困惑を覚えるのだけれど、誰かが死ぬ、という行為や事態には小説のなかでは、最早価値はない。なぜ彼は死んだのか、なぜ彼は死ななければならなかったのか、なぜ彼は救われなかったのか、いや、彼は死んだからこそ救われたのか、その地点にしか小説の価値はないとぼくは思っている。つまり小説の価値は、誰かが死ぬ、という事柄の方ではなく、誰かがなぜ死ななければならなかったのか、という描かれ方の方にしかないと思うのだけれど、なんだか凄く当たり前のことだ。物語のない死体を主眼に描かれた小説であっても、物語がない、ということ自体が物語りに立脚しているといえばいいのか、なんだか本格的に逸れてきたからやめるけれど。この小説『You can keep it.』の恥ずかしさというのは、ぼくはどうも、作者の側の稚拙さにあるような気がして、仕方がなかった。小説内部の恥ずかしさと、作者から感じる恥ずかしさは、まったく違う。小説内部の恥ずかしさというのは、その登場人物に属する、謂わば肉とか髪の毛とか内蔵とか、人間的な輪郭とでもいえばいいのか、結果論からいうと、それはプラスに作用することだろう、色々な恥ずかしさの種類はあるにしろ、人が描けているということだ。それに反して作者の側に感じる恥ずかしさというのは、よくこんなこと書けたな、とか、あまりにも幼稚な方法論に辟易するとか、そんなところだろう。繰り返すけれど、痛い人を描ければそれは小説としてもうまみや巧みさに繋がることだと思うが、作者自身を痛いと感じさせてしまっては、それはその辺の変な宗教家が書いた本や、言っていることとなんの変わりもない。では、その辺は具体的にどう違うのかというと、それはそのまま、宗教家を描いた小説であるか、宗教家が描いた小説であるかの違いではないか。曖昧なようでいて、全然曖昧ではなく、もしも曖昧であることがその小説の意図ならば、その意図がきちんと読み手にわかるだけの、なにかがそこに埋め込まれていなければならないのではないか、それが描けないから、小説外の活動や、捻くれた作者像や、小説とは違ったところの悪意ある言い方でいえば”ヒント”が必要になってしまい、読者を囲ったり、マイナーという言葉を遣ったり、いまでいえばサブカル的作家という覆いで、小説家としての未熟さを保護しなければならなくなってしまうことになるのだけれど……、それはぼくが考えるに作者のサービス精神や小説の方法論の問題ではなく、小説の存在論的な問題だ。(つまり、多分、それが小説である必要があるかどうかということだと思う、弱気だけれど──もっと、突き詰めていうと、小説は作家と離れたところで、ひとつひとつ評価されるべきだということに辿り着いてしまう)*1
 ごめんなさい、具体的にいうと、ボールが飛んできてたんこぶができるところや、なんとなくフツウの小説とは、一線を画そうと思って、いわせているような会話。というかぼくが知る限りでは誰の指摘も受けないけれど、このひとは小説内の会話がものすごく下手だ。なんだか酷く安っぽい青春漫画を読んでいるようで、ぼくはそういう未熟さに対する恥ずかしさを感じた。それは恐らく意図したものではないだろう(タンコブでそう思った)。こんなものを正々堂々と書き通してしまった綿矢りさは恥ずかしい。、芥川賞を取ったから、こんなに辛口なのかも知れないけれど、蹴りたい背中のときは、もうすこし違う方面に期待していのたのだけれど、それがこんな小綺麗にまとめただけの、小説になってしまって非情に残念にも思った。このまま突っ走っちゃうのか。

*1:でも小説家が油断できないのは、それが稚拙な方法だと、読み手は、それをこそ幼稚だと思って、痛いとか下手とか恥ずかしいとか思うから、なんとも苛つくと思うのだけれど──。