入浴時の出来事

風呂に入って、湯船に沈んだ足先をじっと見つめていると、もっと近くで見てみたいような気がした。足首を掴んでから、顔の前に近づけてみた。随分と変な形だと思い、そのなかでも、特に一番大きな親指が変だと思った。横から見ると、茹でた空豆にも似ているし、裏から見ると、蛇の頭の形にも似ていると思った。どんな味がするのか、とりあえず、口に含んでみようと思った。爪はつるつるとしていた。舌に触れると、きっと冷たくて心地よい感触がするに違いない。足先をぐっと近づけ、口を開けた。無理な体勢になった。流石にこれはまずいと思った。味がまずいのではなく、体勢がまずい、というわけでもなかった。自分の足をどうして自分でしゃぶるのか、それがとても変なような気がした。なんだか悲しくなった。自分がとても不幸な人間になったような気がした。足首を離し、湯船に戻った足先を、沈んだことを確認するように眺めた。親指は身体を動かすとゆらゆらと揺れ、また、口に含んでみたいと思った。
 洗ったばかりだったので、恐らく味はしないだろう、いったい口のなかに、どんな感触がするのか、親指はどんな触られ心地がするのか、それが気になった。想像してみると、自然と、舌が歯の裏にくっつき、どきどきとした。じっと奇妙な親指の形を見れば見るほど、興味が沸いた。もういちど足首を掴み、湯船の上に、杭のように足を突き出してから、やはり、まずいと思った。
 白々しく目を逸らし、蛇口を捻ってお湯を足した。じゃばじゃばとおおきな音を立てて、湯を掻き回し、湯船の中で拳を握って素振りをしてみたりした。他のことを考えようと思った。考えることがおぼつかないなら、九九でもしようと思った。三の段まで九九をしてみて、ようやくなにかが静まったような気がした。もういちど湯船を覗いてみると、やはり、まだ、口に含んでみたかった。
 親指は他の指に比べると爪が異様におおきい、ぎゅっとお尻を押されて、指のなかにめり込んだような形をしている。指の先よりやや長いところで弓なりになり、波打ち際のようにカーブを描いて、泡が砕けたように、白い縁取りをしていた。きっとつるつると心地よい舌触りに違いない、と思った。ざらざらとした厚い皮の感触が、口のなかで気色良さそうだった。きっと、幸せな気持ちになれるに違いないと思った。指の横腹はすこし硬くなっていて、瘤のようにやや突き出て黄色く変色していた。
 湯船から出ると、体重計には乗らずに、髪を乾かした。足先を見ないように身体を拭いた。蛸の話しを思い出した。生け簀や水槽に入れた生きた蛸は、自分で自分の足を食べてしまうという。たぶんストレスだろうと、聞いたのだけれど、なんだかぼくは怖くなった。服を着るまえに、先に靴下を探した。こういうとき、靴下の片側はなかなか見つからないものなのだけれど、思わぬところですぐに見つけた。その場で行儀良く屈んで、靴下を順に履いた。なんだかほっとして、しばらくのあいだ、それで過ごしたいような気がした。