自意識過剰と演技/『セックスと嘘とビデオテープ』

 扱ったのは無意識で、それが矛盾に顕われる。

「最近、夫に触られるのがいやなの」では、夫婦関係は?「別に悪くないわ」アンにとって夫婦にセックスはなくともよいものだ。「おとこはセックスを過大評価しすぎなのよ」

 セックスとはなにか? ビデオテープとはなにか?
 さて、そんな下らないことは放って於いて、ぼくはこの映画を初めて観たときに、なんて下手な役者たちなのだと思った。主にアンディ・マクダヴェル演じるアンとジェームズ・スペイダー演じるグラハムのことなのだけれど。(でも、スペイダーはカンヌ映画祭で主演男優賞を貰っていることは知っていた)監督のソダーバーグにはなにかしらの演技に関するオブセッションがあって、例えばグラハムが夕食時に持ち上げるスプーンの動きひとつにしても、アンがアパートを見学に行った際のクローゼットを開ける動きに関しても、まるで筋肉単位で動きの指示を出しているようなぎこちのなさが、常に演者の側に付きまとっていた。素人芝居のような、どこか変な居心地の悪ささえぼくは感じはじめていたのだけれど、喫茶店で突如として居候してきたグラハムにアンはこう言われて、ぼくは目の前がくらくらとした。「きみは自意識過剰なんだよ」ぼくは落ち着かなくなった。自意識過剰とは、つまりそういうことだからだ。「始終誰かに見られているみたいだよ」とグラハムは続けた。そういうグラハムも自意識過剰のように、身体の動きのひとつひとつが大袈裟に意味と接続されていた。でもそれは無理もなかった、彼は演技をしている人物を演技していたからだ。
 さて、そのときのぼくの大事なところは、自意識過剰と演技だ。自意識過剰とは誰かに見られていることで、誰かに見られているから、演技をする。つまり、見られることと、演技の関係をぼくは突然映画で指摘されて、呆然とした。それも付き合ったばかりの彼女と見ているときに指摘された。でも、実はそれではまだ浅かった、どうしてぼくは演技をしなければならないのか。それこそが重要で、ぼくにとって触れられたくない痛いことだった。素の自分は見せたくないし、好きなひとに素の自分、ほんとうの自分を嫌われたらショックだし、だって話しが拡大して、みんなにそんなこと知られるは恐ろしい。有り体にいえばぼくは誰にも常にいいひとに見られたかった。過去形で書くと、なんかまた昔話だ。いや、過去なのだけれど。ぼくの目眩が長かったことと、ほとんど映画の内容をおぼえていないことを覚えている。アンが飲んでいたワイングラスの縁を撫でたり、脚を無意味に掴んだりするものだから、ぼくは飲んでいたワインも、口にできなかった。それにしてもよくワインを飲む映画だとぼくはぎこちなく肩に手を回しながら思った。
 でも、自意識過剰な為には、あらゆる演技がどのような効果を相手に与えるのか知り尽くしていなければならない。唐突だけれど。そうなのだよ、明智くん。はっはっはっ。