綿矢りさから感じる恥ずかしさ/『You can keep it.』

 インストールをようやく買って読めた。といってもタイトルの方はまだで、おまけのように付いている『You can keep it.』から読んだ。インストールのはじめの二、三ページだけを読んだのだけれど、よくこれで新人賞の予選を通過したなと思った(作品とは別のところで出される評価基準で通った、というようなことを言われるようなことをいわれても、まあ、おかしくはないと思った((ぼくは特にそんなものどうでもいいけど)))。それと関係があるのかも知れない。『You can keep it.』を読んでいると、恥ず:かしくて仕方がなかった。小説に限らず、なにかを読んでいて、恥ずかしくなることはよくあることだけれども(そもそも他人に書いた物を読まれることはとても恥ずかしいが、それは置いて於いて)、その源泉こそが、小説の問題で、つまりなにかしらの価値があるとするらならば、恥ずかしさを感じたというただ受動的なもののなかではなく、どのような意図や、どのような方法でその小説が人に恥ずかしさを与えたのかということを探らなければ、その小説の価値(アバウトだけれど”善し悪し”)は評価できないとぼくは思っている、というか思いたい。それは例えば、小説のなかの”死”というものにも言えることで、どちらかというとぼくはこちらの方に、いつでも強い困惑を覚えるのだけれど、誰かが死ぬ、という行為や事態には小説のなかでは、最早価値はない。なぜ彼は死んだのか、なぜ彼は死ななければならなかったのか、なぜ彼は救われなかったのか、いや、彼は死んだからこそ救われたのか、その地点にしか小説の価値はないとぼくは思っている。つまり小説の価値は、誰かが死ぬ、という事柄の方ではなく、誰かがなぜ死ななければならなかったのか、という描かれ方の方にしかないと思うのだけれど、なんだか凄く当たり前のことだ。物語のない死体を主眼に描かれた小説であっても、物語がない、ということ自体が物語りに立脚しているといえばいいのか、なんだか本格的に逸れてきたからやめるけれど。この小説『You can keep it.』の恥ずかしさというのは、ぼくはどうも、作者の側の稚拙さにあるような気がして、仕方がなかった。小説内部の恥ずかしさと、作者から感じる恥ずかしさは、まったく違う。小説内部の恥ずかしさというのは、その登場人物に属する、謂わば肉とか髪の毛とか内蔵とか、人間的な輪郭とでもいえばいいのか、結果論からいうと、それはプラスに作用することだろう、色々な恥ずかしさの種類はあるにしろ、人が描けているということだ。それに反して作者の側に感じる恥ずかしさというのは、よくこんなこと書けたな、とか、あまりにも幼稚な方法論に辟易するとか、そんなところだろう。繰り返すけれど、痛い人を描ければそれは小説としてもうまみや巧みさに繋がることだと思うが、作者自身を痛いと感じさせてしまっては、それはその辺の変な宗教家が書いた本や、言っていることとなんの変わりもない。では、その辺は具体的にどう違うのかというと、それはそのまま、宗教家を描いた小説であるか、宗教家が描いた小説であるかの違いではないか。曖昧なようでいて、全然曖昧ではなく、もしも曖昧であることがその小説の意図ならば、その意図がきちんと読み手にわかるだけの、なにかがそこに埋め込まれていなければならないのではないか、それが描けないから、小説外の活動や、捻くれた作者像や、小説とは違ったところの悪意ある言い方でいえば”ヒント”が必要になってしまい、読者を囲ったり、マイナーという言葉を遣ったり、いまでいえばサブカル的作家という覆いで、小説家としての未熟さを保護しなければならなくなってしまうことになるのだけれど……、それはぼくが考えるに作者のサービス精神や小説の方法論の問題ではなく、小説の存在論的な問題だ。(つまり、多分、それが小説である必要があるかどうかということだと思う、弱気だけれど──もっと、突き詰めていうと、小説は作家と離れたところで、ひとつひとつ評価されるべきだということに辿り着いてしまう)*1
 ごめんなさい、具体的にいうと、ボールが飛んできてたんこぶができるところや、なんとなくフツウの小説とは、一線を画そうと思って、いわせているような会話。というかぼくが知る限りでは誰の指摘も受けないけれど、このひとは小説内の会話がものすごく下手だ。なんだか酷く安っぽい青春漫画を読んでいるようで、ぼくはそういう未熟さに対する恥ずかしさを感じた。それは恐らく意図したものではないだろう(タンコブでそう思った)。こんなものを正々堂々と書き通してしまった綿矢りさは恥ずかしい。、芥川賞を取ったから、こんなに辛口なのかも知れないけれど、蹴りたい背中のときは、もうすこし違う方面に期待していのたのだけれど、それがこんな小綺麗にまとめただけの、小説になってしまって非情に残念にも思った。このまま突っ走っちゃうのか。

*1:でも小説家が油断できないのは、それが稚拙な方法だと、読み手は、それをこそ幼稚だと思って、痛いとか下手とか恥ずかしいとか思うから、なんとも苛つくと思うのだけれど──。