愛は駄文を救うか

 愛というのは文章に対する愛ではなく、どうしようもない駄文を書いてしまった自分を擁護したい、自己愛で、駄文というのは、昨日の日記のような、どうしようもない文章だ。もう、ほんとうに、どうしようもなくて、情けない。感傷というものには、気をつけなければならない。感傷は危険だ。英語でいうとdangerousでriskyだ。感傷をいかにtrickyにするか、そこにしか感傷の価値はない。そうぼくは思っている。感傷は浸るものではなく、葛藤するものだ。そういうことを、折り目正しい日本語でいうと、素直になれない、とも言うが、まあ、そんなことはどうでもいい。感傷は嫌いだ。そして感傷的な文章はもっと嫌いだ。さもしくて、厭らしくて、不潔で、スケベだ。
 駄目なところを上げてみよう。まだ冒頭は許せる。本屋までも許せる。曖昧な返事も許せる。そこからが、てんでなってない。それでもまあJAZZまでは、許す。空間的な移動は、一呼吸置く意味でも、つまらなくはない。でもそこからが、つまらない。まるでぼくが書いたものが、まずい料理のように、退屈なのだ。久しぶりの再会をてんで、生かせてない。二皿目のところなど、書いたヤツを見つけて殴りたくなるくらいに、つまらない。雪、という言葉もつまらない。雪は危険だ。雪、と書いただけで、感傷的になってしまう。しんしんと降り積もる雪。ああ、厭らしい。そしてそのあとはひたすら、さもしくて、スケベな文章が続く。最後の曖昧なところなど、書いたヤツは首でもくくった方がいいくらいに酷い文章だ。感傷に浸って、雰囲気だけで、なにを書いているのかわかっていない。そういう意味で感傷はやはり危険だ。文章が不感症になる。曖昧なものが美しいなどと思って書くのは、ただの甘えだ。裏にはナルシシズムと、擁護がある、擁護とは自分に向けられた、書くという責任からの単なる逃避だ。そして、ぼくはそっという、ハルキは嫌いだ。
 朝はテンションが高い、わけもなく高い。愛は駄文を救えるか? さあ、やってみよう。ぼくはぼくを救えるか。そんな大仰なことではない。駄文をなんとか、修正したい。
メモ
その1、ふたつの文章は分けた方がいいのか?
その2、ふたつめの文章の厭らしさをいかにして、消すか。
その3、雪といかにして、戦うか。
その4、飽きたらやめるか。

華麗に感傷的な平日 

 ねえ、あのさ、近くにイタリア料理できたんだけど。というので、こちらから誘った。携帯電話の向こうで、長い沈黙があった。明け方近くで、新聞配達の音が聴こえて、雨が降っていた。
 翌日、本屋で待ち合わせをして、店に向かった。ぼくの方がより待たせたが、互いにすこし遅れて来たらしい。道が混んでいたわけではなく、ぼくの方は、ただ待つのが、煩わしく感じられた。どうしてか、自分が待っている姿を見られたくなかった。会うのは一年半ぶりで、そのあいだ連絡もなかった。
 どこも変わっていない。そうなぜか思い込んで来たのだけれど、少し違って、戸惑った。「痩せた?」と尋ねると、曖昧に返事をされた。ちょっと太って、すこし痩せたけど、いわれるとそうかも知れない、といわれた。曖昧な返事の仕方は以前と変わりなかった。
 店はコインランドリーだった場所にあった。蒲団を二三度洗いに来たことがあって、たしか毎回なにかの雑誌をぼくが忘れた。いまは建物も違って、駐車場も変わっていた。駐車スペースが以前より狭くなって、建物はそのまま高くなって、屋根が三角形になっていた。コインランドリーはどこかコンビニに似ていたけれど、いまのイタリア料理店は、デコレーションに似ていた。おおきな窓ガラスがなくなって、ポーチがあった。木製の扉を開けると、彼女が先に入って、ぼくが後ろを歩いた。微かに大蒜とパンのにおいがして、席に案内されると、JAZZが聴こえた。
 料理はひどくまずかった。それもいけなかったし、稚拙な接客も、いま思うと、まずかった。すぐに気まずくなった。メニューはひとつしか渡されなかったし、なかなか飲み物も尋ねられなかった。ワインの名前を店員に繰り返しているとき、隣の中年夫婦と目があった。夫婦は着飾っていて、店員がいなくなり、男の方ともういちど眼が合うと、突然、どうしてかお追従的な言葉を口にしたくなった。
 久しくお追従の言葉など口にしていない。誰かを褒めたり、誰かをおだてたり、ねぎらったこともなかった。つまり他人を肯定できないってことでしょ。そういわれてしまうのが怖くて、ぼくは口を閉じ眼を閉じた。
 白身魚カルパッチョを食べながら、話しをした。お互いのことを迂回するように、話しをした。実家の飼い犬が死んだ、そういえば紀子さまが懐妊した、互いの友だちの近況についてすこし話した。ナイフはよく切れて、テーブルクロスにはシミがなかった。眼を合わさずに、相手の皿ばかり見ていた。店員が無言のままやってきて、皿を下げていったので、「ほんとひどい店だな」というと、気分を害したようで、彼女はしばらく無口になった。
 二皿目の温野菜のマリネが出てきたので、互いに無言で食べた。白いアスパラガスとブロコッリーとにんじん、それにアイオリソースをかけたもので、皿の上で砂糖菓子のように崩れかけていた。明らかに茹ですぎだった。
 ワインが出てきたのは、思い出したようにパンがサーブされたあとだった。パンは冷たく、バターはついていなかったけれど、ワインは美味かった。銘柄は見たことのないものだった。皿を下げられてから、グラスをもう少し薄手のおおきめなものにした方がいいとぼくはいった。彼女も同意したようで、グラスの縁を指先で拭いながら、頷いた。
 ボトルがあきかけた頃には、互いに、もう少しおしゃれしてくればよかった、と笑いながら話すようになった。コーヒーとカプチーノを頼み、会計を済ませようと店員を呼ぶと、「おごるよ」といわれた。唐突にいわれた。うつむいてハンドバッグバックの留め金をはずしながら、どこか慌てたように、照れたようにいわれた。言いかけていた言葉を飲み込み、ぼくは財布をしまった。先に外に出ている、といった。
 駐車場に出ると降っていた雪が積もりかけていた。アスファルトが斑模様になっていた。正面を行き交う車を見ながら、ぼくは昔のことを思い出した。随分昔のことのように感じれられて、年を取るとは、云々、とほんとうの年寄りのようなことを思った。昔のことは感傷的になるから、あまり好きではない。けれども思い出した。できるなら、もう少し冷たくありたい、すべてに。ぼくはそう思いながらタクシーを待った。
 雪、と景色。
 思い出したこととは別に、例えばこんなことがあった。一年間休まずスポーツジムに通った。正月の三ヶ日以外、ぼくは毎日通った。知り合いばかりのジムで、インストラクターと知り合いだった。そこから鎖のように輪が広がっていった。多分、寂しかったのもあった、当時の彼女とひどい別れ方をして、相手はいちばん仲の良い友だちだった。
 はじめは会えば喋る程度だったけれど、そのうち終わってから飲みに行くようになった。軽くどこかのバーに寄ることもあったし、キャバクラやそのひとの家にお邪魔することもあった。五十近くのひとから、ぼくよりもむっつ年上の院生もいた。総じて十人くらいはいたのだけれど、みんなで出掛けたことは一度もなかった。目に見えない派閥、もっと穏やかにいえば相性のようなものがあった。それは、そこだけではなく、どこにでもあった。
 誰かと飲むたび、誰かが誰かの悪口を口にしていた。いけ好かないのなら、見ないようにすればいい、とぼくは思った、けれども、そういう相手ほどなにかがよく見えてしまうものらしい。一緒にいて、ぼくが気付かなかったことや、他の誰も知りそうにない、当人の込み入った家庭環境までをも知っているひともいた。ぼくは誰とでも出かけて、多分誰からもよく誘われた。たまに口が重なることもあったけれど、ぼくはそのどちらにも顔を出していた。途中で切り上げ、途中から参加をしていた。そうか、がんばれよ。と見送られ、おう、随分遅くまでつかまってたな。と歓迎された。おおくのワインの味を覚えて、おおくのブランデーの空き瓶を目にした。
 風邪で体調を崩した日もあったし、飲み過ぎてラベルや酒瓶を見ただけで吐き気を催した日もあったけれど、ぼくはジムに通い続けていた。ジムに行けば、また誰かから誘われ、また酒を飲んで、また誰かの陰口を聞いた。ジムに通い、ぼくは徐々に太った。
 ぼくには落ち着いて寝ていることや、二日酔いだからといって、誘いを無下にすることは出来なかった。悶々と布団から起きあがってジャージに着替え、手洗いで吐いてから、ジムに通った。なにかしらの形で、ぼくは必ずそこにいなければならない。
 自分の居ない景色が、どうしてあんなにぼくを不安にしたのだろうか。どこか気持ちが塞ぎ込むような、それでいて無理にでも駆けつけなければならない、切なくて、遣り切れなくて、コントロール不能になった。
 雪、と景色。
 雪は積もるかも知れないし、積もらないかも知れない、と思った。タクシーに乗った。いまはもう大丈夫だ。とても静かに、見知った場所に、ゆっくりと降り積もっていく雪のように、それらは見えるから。窓の外の景色のようなものとして、いまはそれらが見れる。とても冷静に見れるから、いまはもう大丈夫だ。携帯電話が鳴ったが、そっと電源を切った。ジム通いをやめたのは引っ越してからで、感傷もドラマもない引っ越しだった。後ろのワイパーが動いた。

ファッションとパッション

 夢中になって、おしゃれをすることはとても恥ずかしい。ぼくがそう思っていたのは中学二年生の頃で、そのころの休日といえば、学校近くのバス停で待ち合わせをして、それから誰それが履いてきた靴を褒めたり、誰それが被ってきた野球チームのロゴが入っていない帽子を羨ましがったあと、坂の上からやってきたバスに乗って、街に出掛けることからはじまっていた。朝九時半くらいで、街に着けばちょうどあらゆるお店が開いたばかりという時間だった。いつでもぼくら以外、あまりひとはいなかった。目的はその週によって違うものの、大抵服を置いてある店からまわっていく。誰それが着てきたトレーナーがちょっとイカスとか、シャツにかけたサングラスがハマショウみたいでナウイとか、ジーンズの折り目がほどよくほぐれているとかといって、それが置いてある店にまず行ってみることにバスの中で決まるのだ。(ちなみに”イカス”とか”ナウイ”とか”ハマショウ”という言葉は、いまでいうと”クール”だとか”犬の糞みたいに最高”だとかいう言葉になる)
 ぼくはほとんどバスの中では外を見ていた。バスはいつでも決まったところを通るので、景色は着慣れた制服とか履き慣れた上靴のように馴染んでいたのだけれど、それを見ているとどこかしっくりとのんびりとしたものを感じるものの、単にみんなの話しにぼくが入りがたかっただけだった。
 いつでも古びた服装をしているぼくは、誰かが値札付きのシャツを首から下にあてがったり、試着室のまわりでおんなの子のように色めき立っているときにも、感想を口にしなかった。小学生から変わらない服装をしているぼくが、その輪の中に参加するのは烏滸がましいような気がしていたので、誰かが笑うと一緒に笑ったり、テレビや音楽や映画の話しが出るときにだけ、口を開いていた。もちろん家の事情からぼくがそのような格好をしていたわけではなかった。
 店に行くと周りからハンガーに掛けてある服をすすめられることもあったけれど、ぼくはなにかの委員に自分の名前が推挙されてしまったときのようにそわそわとしながら、妙に上擦った声で、このままでいいから、とか、これが好きだからとかと返事をしていた。推挙される委員は書記と美化委員が多かった。
 特におしゃれに興味がなかったというわけではなく、なんとなく、あからさまに過ぎるような気がしたのだった。あからさまといっても、なんに対してなのかよくわかっていなかったから、わざとらしいとでもいった方がいいかも知れない。なにかに媚びているような感じがして、自分というものがどこかに迷い込んでしまうような気さえするのだった。
 夢中になっておしゃれをすることは、とても恥ずかしいことだとぼくは思った。ぼくが望んでいたのは、できるだけ自然に、自分の服装の変化を誰にも悟られないように変身をすることで、自分だけ古びた格好で目立つことがないように、いつのまにか周囲とおなじ格好をしているということだった。他人に自分の変化を指摘されたり、それを信条の変化だと間違った揶揄をされたときのことを考えると(ぼくが服装を変えないのは信条、いわゆるポリシーからではなかった)、気恥ずかしさや強く弁解をしたくなるような気持ちがこみ上げてきて、ひどく尖った物を突きつけられたように、身体が強張ってしまった。
 試しに、中学生にしてはちょっとおとなびているかもしれないよ。といわれたものの、薄茶色のスラックスを母親と松坂屋に出掛けたときに買ってもらった。みんなとおなじように、休日にそれを履いていこうとしたのだけれど、自室の鏡の前に立ち、片手を腰に宛がったり、眉をしかめてみたり、背中を向いたまま後ろを振り返ったり、ゆっくりと自分の部屋のなかで回転をしていると、どこからか冷たい風が吹いてくるような感じがして、それを着ていこうという決意は、毎回どこかに押し戻されてしまった。中学生にしては落ち着きすぎているかも知れないけれど、それだからなんとなく好感がもたれるかも知れない。という根拠のない思いや、ひょっとしたら自分はこういうおとなびた格好の方が似合うのではないかという、ちょっとした自惚れが、「ぜんぜん似合わねえ」とか、「なにそれ? だれの真似」とか、「ねえ、ねえ。あの子見て」などと誰かも知れない声と笑い声によって打ち消されてしまうのだった。それを履いてみんなの前にいくことは、ぼくにはとても恐ろしく思えた。
 そう思うと、鏡の中のいままでそれほど悪くはないと思っていた姿が、貧相で惨めに見えて、実際には膨らんではいないのに、スラックスが風船のようにどんどんと膨らんでいって、ぼく自信はカメレオンとかカマキリのように部屋の壁と同化してしまったようになってしまうのだった。七五三のとき変な着物を着せられたときのように、洋服に自分が着せられているように思えるのだった。
 実際ぼくはどこからか取り残されていくのを自覚していたけれど、取り残されればされるほど、距離は開きはじめていって、それを埋めることは困難になっていった。なぜならそれに追いつくには、より目立った、すぐにそれとわかる変化が必要になるからだった。
 結局ぼくは中学時代おしゃれをすることを断念した。ぼくが人並みの私服で出掛けるようになったのは、バスに乗って出掛けていた、それぞれが散り散りになって、あまり再会することもなくなった、高校に入学してからだったけれど、おしゃれをすることは、なにかに媚びたり、誰かを惹きつけるためだけにするのではなくて、自分自身が恥をかかないようにするためだとぼくが気付いたのは、それからまだだいぶあとのことだった。結局スラックスは、すぐに短くなってしまい、親戚の家に行くときに一度履いたきりだったが、履いたときの質感や、ふとももが涼しくなったような感じや、袋から出したキャラメルのような色をいまでもよくおぼえている。

中村文則とコンフリクト/『世界の果て』文學界1月号より

 先月号の話しで恐縮なのだけれど、文學界1月号に中村文則の小説が載っていた。芥川賞受賞第一作目ということになるのだけれど、あまりの出来に唖然とした。未知なるものに出会って嬉々とするような唖然ではなく、どこか口を開けて呆然としながら疑義とした視線を投げてしてしまうようなものだった。ぼくがこの小説を小説として疑わしく思ったのは、まずこの小説自体に小説家としての葛藤が希薄だということで、小説家の葛藤というと、前時代的で懐古主義的な、ともすると作家崇拝主義のような響きも伴ってしまうけれども、ここでがいう葛藤というのは、そういった秘術(若しくは詐術)めいたことではなく、単に葛藤を格闘という言葉に置き換えてもいいが、小説家中村文則としての格闘がこの小説には余りにも希薄ではないかと思ったのだった。(希薄というと曖昧だから、小説自体が杜撰といってもいい)ちなみに、ぼくは葛藤がある(若しくは見受けられる)小説が小説(文学)として優れているといいたいわけではなく、単純に小説として成すべき責務(体裁)が、この小説では果たされていなのではないかとぼくは思ったのだった。
 小説自体に成すべき責務(体裁)などないのかも知れないし、責務や体裁を良とするつもりはさらさらないけれども、ことこの小説に至っては、もう少し小説家中村文則*1としてなにかしらの格闘すべきではなかったかとぼくは思うのだ。
 核心部分からいうと、問題はこの小説のリアリティーという部分につきるのだけれど、例えば小説家が小説を執筆するにあたって、なにかしらの制約、ないしは誓約というその小説家が意識的なり無意識的に設定した枠(個人的な規約)のなかで、ひとつの小説は組み上げられる(書き上げられる)ことになると思うのだけれど──例えばそれは保坂和志が口を酸っぱくしていう「現実にそれは本当に起こりえるのか」というリアリティーのこと──それがこの小説では足りなすぎるのではないかとぼくは思う。穿った言い方をすれば、中村文則はこの小説に対して楽をしすぎだと思うのだけれど、その楽さというのが、つまりはリアリティーに関する手抜きのことなのだろうと感じるのだ。
 妄想的な世界観をすべてぼくは否定するわけでもないし、超現実的な小説に関してぼくはネガティブな感情も持っていないけれど、この『世界の果て』に至っては、随分と中途半端で、本当に書きたいことだけを、ダラダラとなんの制約もなしに連ねてしまっただけの、妄想とか夢想的とか超現実的*2にもならない。
 具体的に指摘できる制約(誓約)のなさというのは、例えば犬の死骸を捨てにいき、そこで現実的にはあり得ない子供の死体を埋めている夫婦と会ってしまい、そのあと警察官という現世的なものが、子供の死体を埋めてい夫婦という有り得ない設定のなかで、なんの跳躍もない現実的な発言をしているところとか。──つまり小説としてなにかしら描きたいイメージを、そのイメージに忠実ということのみでこの小説は書かれている(書く側にしてみれば、楽だろう)。
『世界の果て』は中村文則がなんの憂慮もなしにあらゆるものをこの小説に放り込み、それゆえこの小説が位置するスタンスも、小説としての存在理由自体も(これが小説でなければいけいないという理由)かなり危ういものになっていて、『なにが起きるのかわからない』という緊張や期待ではなく「単なるなんでもあり」の無秩序で、退屈な小説に成り下がっているのではないかとぼくは思った。ここまでいってはなんだが、受賞歴からいってかなり信じられないようなレベルの小説だった。
*3

*1:勿論ここには芥川賞受賞者という意味がないようであるような、脱新人──中村文則の書く小説はもう新人のものではないという、ぼく自身の勝手な位置づけが含まれている

*2:超現実的な小説は一見するとなんでもありのような、ある種の混沌とかアナーキズムのようなものまで小説として感じさせることがあるが、それは書く側からいえば、恐らく逆に現実を違う側面から照射するということに於いて、常に書いていることとは違う照射される側に立ち、まるで言葉の上空とか裏側に立ってテクストと意味と現実とを往復して大変な疲弊のなかで書くようなものではないか──つまりよりシビアで制約のようなものが反対に多いのではないだろうか。それを間違えて、表面だけの模倣としてただ無秩序に語感(言葉の響き)のみを頼って書かかれた小説は、──読むという意識がまったく欠けた、小説ではない小説になるだろう。

*3:プロットにしても、イメージだけが先行していて、いわゆるヒーリング音楽というものをぼくは思い出してしまったのだけれど、──勿論ヒーリングとは逆のことが描かれている。──その中身のない、スカスカとした感じはぼくにはやはりどうにも不愉快(いわゆる小説の読みとしての不快ではない)に思えた。

正月葬送

 なんか起きてからなにもやる気にならないし、これこそまさに正月なのだと納得をしつつ、昼間から剛毅にお酒でも飲もうと思ったらストックがないのであった。仕事仲間に先日振る舞ったはいいが、酔っぱらって、ありとあらゆるアルコールを出してしまったらしい。ワインもないしビールもない。隠し置いたコニャックだってないじゃん、なんだコレっ。って上の棚を開けると醤油のとなりにみりんはあるが、こんなの飲めるわけはない。買いにいきましょうと表に出たら寒かった。
 家に戻って適当にネットを眺め、ゴーゴリの鼻なんかを読み始めたのはいいのだが、なんだか眠くなる。変わりに河野多恵子の『小説の秘密をめぐる十二章』、去年買って捨て置いた文庫を読むが、これまたなかなかおもしろい。小説の書き方を巡ったこれは河野多恵子の小説なのだろうとぼくは蒲団にはいりながら思った。いちいち突っ込んだり、実績的なことを求めたりすると、途端におもしろくなくなる類の本なのだとオイルヒーターの電源をいれた。それにしても得心したのは、『第五章・才能をめぐって』で、曰く才能には二種類あって、そのひとつは『狭義の「文学的な才能」つまり想像力、感覚、思考上の瞬発力あるいは持続力、ようするに天賦といわれる部類にはいるもの』で、もうひとつの広義の才能というのは、曰く『狭義の才能を支え、生かす能力であり、吸収力、度胸、洞察力、観察力、決断力、好奇心などを発達させること、そして「努力すること」なのだ』という。つと、どこかの隙間にちいさな箱が収まるような関心をおぼえた。こういうことを堂々と書く人はいまあまりいないんじゃないろうか。そもそもなにかに才能が必要だと指摘することだって、今時なかなか出来るものではない。誰かの可能性を否定することは、いま誰しもが過剰に過敏で、誰しもしたくないのだ。
 まあそれはさておき、努力することとはつまり、「甘い考えを遠ざけること」「逃避せずにきちんと書くこと、書ききる」ことだと河野多恵子は言う。それを才能だと河野多恵子は位置づけるのだ。これはちょっとすごいじゃないか。努力できないのは、才能がないからなのだ。ちょっと恐ろしい言葉ではないか。努力しないことは自覚的な行動ではなく、それこそまさにあなたの才能のなさなのだ。
 またうとうととしてきたので、読書もそこそこに外に出た。まだ寒かった。日が暮れているのだから、尚のこと寒いのは当然で、仕方なく車に乗り込み駐車場から出ると、嫌にごつごつとしていることに気付いた。路面はアスファルトだし、凍ってもいないし、後ろになにかの死体もなかった。降りると後輪がパンクしていた。そのまま進路を変え、近くのガソリンスタンドへ向かった。そのままタイヤの交換もして、お代は六万円近く。ワインを買うのはやめて、コンビニでワッフルをふたつ買った。タイヤが四本てらてらとしていて、明日は寒くなかったら洗車でもしようと思った。そういえば『小説の秘密をめぐる十二章』のあとがきを読むと高橋源一郎もおなじところを指摘していて、あとがきの癖に綺麗にまとめるのは反則じゃあないだろうかと思ったことを思い出した。

なんでだろう/訂正のお詫び

 モーツァルトの書簡をもういちど読み直したら、これはどうみてもすべてが意図的で、どうしてぼくは変に読み間違えていたのだろうと思い、すごい憂鬱で怖くなった。以上の異常、頭の故障を踏まえて、大幅に改竄しました。しかし、それにしても書いていることは似ていても、まったく逆のことをぼくは書いていた。ちょっと恐ろしい。

残り続ける印象/『モーツァルトの手紙』

 書簡の探しものをしていたら、なんとモーツァルトの手紙がでてきて、読むとおもしろくて、まるで小説のようだった。はじめて読んだのだけれど、モーツァルトはなんておもしろい文章を書くのだろう。自意識過剰なところを諧謔的に書いているのがこれまたうまくて笑えるのだけれど。モーツァルトは幼い頃から神童と呼ばれているわけで、それだから実際は過剰ではないのだけれど、すべてのなにかしらの天才が、このような自信が顕著に隠顕(矛盾ではない)された文章を書くとは限らない。それがまたおもしろい。これモーツァルトではなくて、天才だと思い込んだ普通の人が書いた手紙という立派な小説になるのではないか。それにしても、モーツァルトは文才があるのではないか(これはちょっと凄い)。

従兄弟〔父モーツァルトの兄弟がアウグスブルクにいて、製本業を営んでいた。その息子にモーツァルトより二歳年少なのがいた〕は人の善い、親切で正直な、立派な市民ですが、私と一緒に出かけて、私がこの有力で地位の高い市会理事との会見を済ますまで、従者の様に広間で待っていました。

ここの部分の最後の箇所からでもモーツァルトは従兄弟が広間で待っていたことが気に入らないらしいことがわかるのだけれど、このまわりくどい言い方が高慢ちきで、そのくせひとりで面会させられたことをすねていて如何にもおかしい。
そして、他人の方をこそ高慢ちきと呼ぶモーツァルト

高慢ちきな青年とその細君、それから質朴な老婦人が側で聴いていました。初めに即興演奏してから、そこにあった全部の楽譜をひきました。主だった作品のなかにはエードルマンの美しい曲もいくつかありました。この人たちくらいに品をよくしているのを見たことがありませんし、私も同様に品をよくしていました。相手がするのと同じ態度に出てゆくのが私のきまりです。それが一番よい方法に思えます。

最後のところが本気なのか、たぶん冗談だろうけど。ちょっと諧謔性にとんだ一文。こういう見識を疑うような余計な一文をつけてしまう(つけられる)のは、もう天才とは関係なく文才としかいいようがない。

彼はグラーフという作曲家(フルート協奏曲しか書いていないが)のことを騒ぎ立てて私に聞かせました

(フルート協奏曲しか書いていないが)
爆笑しました。フルート協奏曲書いたくらいでは、勿論モーツァルトのなかでは作曲家ではないのです。この自信ぶり!

http://www.gutenberg21.co.jp/mozart_letter.htm
引用した箇所以外もおおいに笑えます。1通文が上記で読めます。買いたくなってしまった……。

──以下まったく余分です──
 ぼくは上記で、「小説のようだ」と書きはじめたけれど、もちろんそれは本来は逆で、よく出来た小説というのもが、このような文章になる。
 ここからちょっと深入りしてみるとそれこそが正しく文章というものの問題で、こういった書き方をされた文章をなにかしらの形でフィクション(作り物めいたものにわざとしている)と知っている者は、この手紙をモーツァルトが滑稽さを出して(真似て)書いた文章だと思うのだけれど(つまりモーツァルトの手紙の独自性は、手紙のなかの所作ではなくこのような書き方をして、笑わせようとする書き片のほうに主に向けられる)そしてそのようなものをフィクショナルだと判断できえない場合はモーツァルトという音楽の天才性に収斂されたものとして文章を読んでしまう可能性も否定できないのではないか(天才ゆえに高慢ちきで嫌なヤツという判断)
 ここで滑稽(冗談、ユーモア)の判断材料となるものはモーツァルトが書いた文章ではなく、外部の経験(お約束)であったりモーツァルトというラベルでしかないのではないか? とぼくはすこし悩んだのだった。これは結構ヘビーな事実問題ではないか。
 このような問題に触れるべきではないが*1、例えば、死語にぼくが書いた以下のような文章のみが、”なにかしらのお約束”を前提とせず、──つまり”お約束”の通じない誰かの目によって読まれたなら、──ぼくの存在のなにかしらを保証する唯一のものとしてこれだけが残ったのならぼくは異常者だろう。
http://d.hatena.ne.jp/sottish/20051027
 そしてそのようにぼくの残したものを、つまりぼくの全人格をあたかもそれだけのように改竄したり編集したりできるものはすぐ身近に存在していて、マスメディアというものがそういったことに秀でていることは、いまさら指摘しなくともいいだろうけれど。

*1:単なるぼくのこのブログに於いての心情です