中村文則とコンフリクト/『世界の果て』文學界1月号より

 先月号の話しで恐縮なのだけれど、文學界1月号に中村文則の小説が載っていた。芥川賞受賞第一作目ということになるのだけれど、あまりの出来に唖然とした。未知なるものに出会って嬉々とするような唖然ではなく、どこか口を開けて呆然としながら疑義とした視線を投げてしてしまうようなものだった。ぼくがこの小説を小説として疑わしく思ったのは、まずこの小説自体に小説家としての葛藤が希薄だということで、小説家の葛藤というと、前時代的で懐古主義的な、ともすると作家崇拝主義のような響きも伴ってしまうけれども、ここでがいう葛藤というのは、そういった秘術(若しくは詐術)めいたことではなく、単に葛藤を格闘という言葉に置き換えてもいいが、小説家中村文則としての格闘がこの小説には余りにも希薄ではないかと思ったのだった。(希薄というと曖昧だから、小説自体が杜撰といってもいい)ちなみに、ぼくは葛藤がある(若しくは見受けられる)小説が小説(文学)として優れているといいたいわけではなく、単純に小説として成すべき責務(体裁)が、この小説では果たされていなのではないかとぼくは思ったのだった。
 小説自体に成すべき責務(体裁)などないのかも知れないし、責務や体裁を良とするつもりはさらさらないけれども、ことこの小説に至っては、もう少し小説家中村文則*1としてなにかしらの格闘すべきではなかったかとぼくは思うのだ。
 核心部分からいうと、問題はこの小説のリアリティーという部分につきるのだけれど、例えば小説家が小説を執筆するにあたって、なにかしらの制約、ないしは誓約というその小説家が意識的なり無意識的に設定した枠(個人的な規約)のなかで、ひとつの小説は組み上げられる(書き上げられる)ことになると思うのだけれど──例えばそれは保坂和志が口を酸っぱくしていう「現実にそれは本当に起こりえるのか」というリアリティーのこと──それがこの小説では足りなすぎるのではないかとぼくは思う。穿った言い方をすれば、中村文則はこの小説に対して楽をしすぎだと思うのだけれど、その楽さというのが、つまりはリアリティーに関する手抜きのことなのだろうと感じるのだ。
 妄想的な世界観をすべてぼくは否定するわけでもないし、超現実的な小説に関してぼくはネガティブな感情も持っていないけれど、この『世界の果て』に至っては、随分と中途半端で、本当に書きたいことだけを、ダラダラとなんの制約もなしに連ねてしまっただけの、妄想とか夢想的とか超現実的*2にもならない。
 具体的に指摘できる制約(誓約)のなさというのは、例えば犬の死骸を捨てにいき、そこで現実的にはあり得ない子供の死体を埋めている夫婦と会ってしまい、そのあと警察官という現世的なものが、子供の死体を埋めてい夫婦という有り得ない設定のなかで、なんの跳躍もない現実的な発言をしているところとか。──つまり小説としてなにかしら描きたいイメージを、そのイメージに忠実ということのみでこの小説は書かれている(書く側にしてみれば、楽だろう)。
『世界の果て』は中村文則がなんの憂慮もなしにあらゆるものをこの小説に放り込み、それゆえこの小説が位置するスタンスも、小説としての存在理由自体も(これが小説でなければいけいないという理由)かなり危ういものになっていて、『なにが起きるのかわからない』という緊張や期待ではなく「単なるなんでもあり」の無秩序で、退屈な小説に成り下がっているのではないかとぼくは思った。ここまでいってはなんだが、受賞歴からいってかなり信じられないようなレベルの小説だった。
*3

*1:勿論ここには芥川賞受賞者という意味がないようであるような、脱新人──中村文則の書く小説はもう新人のものではないという、ぼく自身の勝手な位置づけが含まれている

*2:超現実的な小説は一見するとなんでもありのような、ある種の混沌とかアナーキズムのようなものまで小説として感じさせることがあるが、それは書く側からいえば、恐らく逆に現実を違う側面から照射するということに於いて、常に書いていることとは違う照射される側に立ち、まるで言葉の上空とか裏側に立ってテクストと意味と現実とを往復して大変な疲弊のなかで書くようなものではないか──つまりよりシビアで制約のようなものが反対に多いのではないだろうか。それを間違えて、表面だけの模倣としてただ無秩序に語感(言葉の響き)のみを頼って書かかれた小説は、──読むという意識がまったく欠けた、小説ではない小説になるだろう。

*3:プロットにしても、イメージだけが先行していて、いわゆるヒーリング音楽というものをぼくは思い出してしまったのだけれど、──勿論ヒーリングとは逆のことが描かれている。──その中身のない、スカスカとした感じはぼくにはやはりどうにも不愉快(いわゆる小説の読みとしての不快ではない)に思えた。