正月葬送

 なんか起きてからなにもやる気にならないし、これこそまさに正月なのだと納得をしつつ、昼間から剛毅にお酒でも飲もうと思ったらストックがないのであった。仕事仲間に先日振る舞ったはいいが、酔っぱらって、ありとあらゆるアルコールを出してしまったらしい。ワインもないしビールもない。隠し置いたコニャックだってないじゃん、なんだコレっ。って上の棚を開けると醤油のとなりにみりんはあるが、こんなの飲めるわけはない。買いにいきましょうと表に出たら寒かった。
 家に戻って適当にネットを眺め、ゴーゴリの鼻なんかを読み始めたのはいいのだが、なんだか眠くなる。変わりに河野多恵子の『小説の秘密をめぐる十二章』、去年買って捨て置いた文庫を読むが、これまたなかなかおもしろい。小説の書き方を巡ったこれは河野多恵子の小説なのだろうとぼくは蒲団にはいりながら思った。いちいち突っ込んだり、実績的なことを求めたりすると、途端におもしろくなくなる類の本なのだとオイルヒーターの電源をいれた。それにしても得心したのは、『第五章・才能をめぐって』で、曰く才能には二種類あって、そのひとつは『狭義の「文学的な才能」つまり想像力、感覚、思考上の瞬発力あるいは持続力、ようするに天賦といわれる部類にはいるもの』で、もうひとつの広義の才能というのは、曰く『狭義の才能を支え、生かす能力であり、吸収力、度胸、洞察力、観察力、決断力、好奇心などを発達させること、そして「努力すること」なのだ』という。つと、どこかの隙間にちいさな箱が収まるような関心をおぼえた。こういうことを堂々と書く人はいまあまりいないんじゃないろうか。そもそもなにかに才能が必要だと指摘することだって、今時なかなか出来るものではない。誰かの可能性を否定することは、いま誰しもが過剰に過敏で、誰しもしたくないのだ。
 まあそれはさておき、努力することとはつまり、「甘い考えを遠ざけること」「逃避せずにきちんと書くこと、書ききる」ことだと河野多恵子は言う。それを才能だと河野多恵子は位置づけるのだ。これはちょっとすごいじゃないか。努力できないのは、才能がないからなのだ。ちょっと恐ろしい言葉ではないか。努力しないことは自覚的な行動ではなく、それこそまさにあなたの才能のなさなのだ。
 またうとうととしてきたので、読書もそこそこに外に出た。まだ寒かった。日が暮れているのだから、尚のこと寒いのは当然で、仕方なく車に乗り込み駐車場から出ると、嫌にごつごつとしていることに気付いた。路面はアスファルトだし、凍ってもいないし、後ろになにかの死体もなかった。降りると後輪がパンクしていた。そのまま進路を変え、近くのガソリンスタンドへ向かった。そのままタイヤの交換もして、お代は六万円近く。ワインを買うのはやめて、コンビニでワッフルをふたつ買った。タイヤが四本てらてらとしていて、明日は寒くなかったら洗車でもしようと思った。そういえば『小説の秘密をめぐる十二章』のあとがきを読むと高橋源一郎もおなじところを指摘していて、あとがきの癖に綺麗にまとめるのは反則じゃあないだろうかと思ったことを思い出した。