愛は駄文を救うか

 愛というのは文章に対する愛ではなく、どうしようもない駄文を書いてしまった自分を擁護したい、自己愛で、駄文というのは、昨日の日記のような、どうしようもない文章だ。もう、ほんとうに、どうしようもなくて、情けない。感傷というものには、気をつけなければならない。感傷は危険だ。英語でいうとdangerousでriskyだ。感傷をいかにtrickyにするか、そこにしか感傷の価値はない。そうぼくは思っている。感傷は浸るものではなく、葛藤するものだ。そういうことを、折り目正しい日本語でいうと、素直になれない、とも言うが、まあ、そんなことはどうでもいい。感傷は嫌いだ。そして感傷的な文章はもっと嫌いだ。さもしくて、厭らしくて、不潔で、スケベだ。
 駄目なところを上げてみよう。まだ冒頭は許せる。本屋までも許せる。曖昧な返事も許せる。そこからが、てんでなってない。それでもまあJAZZまでは、許す。空間的な移動は、一呼吸置く意味でも、つまらなくはない。でもそこからが、つまらない。まるでぼくが書いたものが、まずい料理のように、退屈なのだ。久しぶりの再会をてんで、生かせてない。二皿目のところなど、書いたヤツを見つけて殴りたくなるくらいに、つまらない。雪、という言葉もつまらない。雪は危険だ。雪、と書いただけで、感傷的になってしまう。しんしんと降り積もる雪。ああ、厭らしい。そしてそのあとはひたすら、さもしくて、スケベな文章が続く。最後の曖昧なところなど、書いたヤツは首でもくくった方がいいくらいに酷い文章だ。感傷に浸って、雰囲気だけで、なにを書いているのかわかっていない。そういう意味で感傷はやはり危険だ。文章が不感症になる。曖昧なものが美しいなどと思って書くのは、ただの甘えだ。裏にはナルシシズムと、擁護がある、擁護とは自分に向けられた、書くという責任からの単なる逃避だ。そして、ぼくはそっという、ハルキは嫌いだ。
 朝はテンションが高い、わけもなく高い。愛は駄文を救えるか? さあ、やってみよう。ぼくはぼくを救えるか。そんな大仰なことではない。駄文をなんとか、修正したい。
メモ
その1、ふたつの文章は分けた方がいいのか?
その2、ふたつめの文章の厭らしさをいかにして、消すか。
その3、雪といかにして、戦うか。
その4、飽きたらやめるか。