残り続ける印象/『モーツァルトの手紙』

 書簡の探しものをしていたら、なんとモーツァルトの手紙がでてきて、読むとおもしろくて、まるで小説のようだった。はじめて読んだのだけれど、モーツァルトはなんておもしろい文章を書くのだろう。自意識過剰なところを諧謔的に書いているのがこれまたうまくて笑えるのだけれど。モーツァルトは幼い頃から神童と呼ばれているわけで、それだから実際は過剰ではないのだけれど、すべてのなにかしらの天才が、このような自信が顕著に隠顕(矛盾ではない)された文章を書くとは限らない。それがまたおもしろい。これモーツァルトではなくて、天才だと思い込んだ普通の人が書いた手紙という立派な小説になるのではないか。それにしても、モーツァルトは文才があるのではないか(これはちょっと凄い)。

従兄弟〔父モーツァルトの兄弟がアウグスブルクにいて、製本業を営んでいた。その息子にモーツァルトより二歳年少なのがいた〕は人の善い、親切で正直な、立派な市民ですが、私と一緒に出かけて、私がこの有力で地位の高い市会理事との会見を済ますまで、従者の様に広間で待っていました。

ここの部分の最後の箇所からでもモーツァルトは従兄弟が広間で待っていたことが気に入らないらしいことがわかるのだけれど、このまわりくどい言い方が高慢ちきで、そのくせひとりで面会させられたことをすねていて如何にもおかしい。
そして、他人の方をこそ高慢ちきと呼ぶモーツァルト

高慢ちきな青年とその細君、それから質朴な老婦人が側で聴いていました。初めに即興演奏してから、そこにあった全部の楽譜をひきました。主だった作品のなかにはエードルマンの美しい曲もいくつかありました。この人たちくらいに品をよくしているのを見たことがありませんし、私も同様に品をよくしていました。相手がするのと同じ態度に出てゆくのが私のきまりです。それが一番よい方法に思えます。

最後のところが本気なのか、たぶん冗談だろうけど。ちょっと諧謔性にとんだ一文。こういう見識を疑うような余計な一文をつけてしまう(つけられる)のは、もう天才とは関係なく文才としかいいようがない。

彼はグラーフという作曲家(フルート協奏曲しか書いていないが)のことを騒ぎ立てて私に聞かせました

(フルート協奏曲しか書いていないが)
爆笑しました。フルート協奏曲書いたくらいでは、勿論モーツァルトのなかでは作曲家ではないのです。この自信ぶり!

http://www.gutenberg21.co.jp/mozart_letter.htm
引用した箇所以外もおおいに笑えます。1通文が上記で読めます。買いたくなってしまった……。

──以下まったく余分です──
 ぼくは上記で、「小説のようだ」と書きはじめたけれど、もちろんそれは本来は逆で、よく出来た小説というのもが、このような文章になる。
 ここからちょっと深入りしてみるとそれこそが正しく文章というものの問題で、こういった書き方をされた文章をなにかしらの形でフィクション(作り物めいたものにわざとしている)と知っている者は、この手紙をモーツァルトが滑稽さを出して(真似て)書いた文章だと思うのだけれど(つまりモーツァルトの手紙の独自性は、手紙のなかの所作ではなくこのような書き方をして、笑わせようとする書き片のほうに主に向けられる)そしてそのようなものをフィクショナルだと判断できえない場合はモーツァルトという音楽の天才性に収斂されたものとして文章を読んでしまう可能性も否定できないのではないか(天才ゆえに高慢ちきで嫌なヤツという判断)
 ここで滑稽(冗談、ユーモア)の判断材料となるものはモーツァルトが書いた文章ではなく、外部の経験(お約束)であったりモーツァルトというラベルでしかないのではないか? とぼくはすこし悩んだのだった。これは結構ヘビーな事実問題ではないか。
 このような問題に触れるべきではないが*1、例えば、死語にぼくが書いた以下のような文章のみが、”なにかしらのお約束”を前提とせず、──つまり”お約束”の通じない誰かの目によって読まれたなら、──ぼくの存在のなにかしらを保証する唯一のものとしてこれだけが残ったのならぼくは異常者だろう。
http://d.hatena.ne.jp/sottish/20051027
 そしてそのようにぼくの残したものを、つまりぼくの全人格をあたかもそれだけのように改竄したり編集したりできるものはすぐ身近に存在していて、マスメディアというものがそういったことに秀でていることは、いまさら指摘しなくともいいだろうけれど。

*1:単なるぼくのこのブログに於いての心情です