平野啓一郎の視線のまずさ/『慈善』すばる1月号より

 映画を見終わってブログを書いてまだ時間があったので、ちょっと『すばる』なんて読んでみた。はじめに高瀬ちひろの受賞1作目が載っていたのだが、最後の方まで読んで結局やめてしまった。たぶんこのひと川上弘美を意識しているのだろうけれど、そこに流れるのは川上弘美の小説から流れる一部の空気というか、部屋で例えればそこにある家具のひとつだけであったり、音楽でいうごく一部の拍子のようなものだけで、まったくそれ以外は陳腐であったり、過剰であったり、川上弘美の特長である行間すらうまく模倣できていない。川上弘美の持つ美点である行間が保持する漂流性のようなものが、紋切り型である作者の意識や言葉のなかにそのまま回収されてしまっている。持っていると思われるであろう問題意識も悪くいえば、独り善がりというか、「それがどうしたの?」と言われかねない、空気というか心地に頼りすぎて、自己言及や批評性のなさがあらわれてしまっているのではないか。(しかし残念なことにその空気すらあまり心地よくない)そもそも万華鏡という小物にしても、単にその物体自身がもつ川上弘美的な質感だけが似ているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。春樹チルドレンではなく弘美チルドレン。現象としてはおもしろいのだろうけれど、ぼくが観たいのは小説に散りばめられた現象であって、テクストにあるセンスと呼べる模倣であり、そういったショー的な部分は、模倣される側とのあまりに明確過ぎる実力の違いにより、この人自身の小説家としての価値を落とすだけではなかろうか。おそらくこの人は小説を書くという推進力の一部を──それはときに怒りであったり、自己憐憫であったり、批評であったり、世界に対する位置であったりとか、貧困とかといわれるもの、──川上弘美の小説に求めていて、つまり川上弘美の書いた文体や空気に相乗することにより、そのまま滑走するような勢いで書いていると妄想するけれど、善し悪しはともかく、あまりにも物質的に(視覚的にわかり過ぎる形で)肉薄し過ぎだろうと思う。独自性云々の前に、そこから離れて小説を書けるかどうかが、これから問題ではなかろうか。
 それはさておき、平野啓一郎の小説を『日蝕』以来に読んだのだけれど、色々と不可解というか、小説として疑問に思うところが多々あった。このひとが持つであろうエリート意識みたいなものがそのまま小説のなかにあらわれていて、ちょっと普通の小説家としてはあり得ないような視点で描かれているので、疑問というか戸惑った。具体的にいうと出だしからそのような、どこか得心しがたい雰囲気は充溢しているのだが、その正体をひとことでいえば、登場人物たちをこのひとは、意識的/無意識的/本質的にかなり”見下している”のではなかろうか。

正直(まさなお)は、まるで政治に関心がない。殊に国際政治については完全に無知である。一度、長女からヨーロッパの白地図を渡されて、国名を記入する問題を尋ねられた時、殆ど答えられずに恥ずかしい思いをしたことがあったので、政治云々以前の話しである。海外には、新婚旅行で一度、グアムに行ったきりである。この時、言葉が巧く出来なくて妻にいい所を見せられなかったことを、後々までずっと気に病んでいた。あまり頑固な質でもなかったが、それで以後は、どんなに家族からせっつかれても、旅行は国内だけと決めていた。
 彼は今日は、前々から自宅に足りないと思っていた延長コードを買いに、ふらりとここに立ち寄ったのだった。
─略─『それにしても、このテレヴィは映りがいいなぁ。こんなに薄いのに。うちもそろそろ、買い換え時かな。……しかし、ボウナスがなぁ、……』
太字部分本文”、”にて強調使用。

まず第一にこのような文は、ユーモアとしてすこしもおもしろくない。もし仮にこれがユーモアであるとしたのなら、そこに含まれる笑いというのは、まさに”見下す”ことによる笑いのみだろう。そういったユーモアが小説としてなぜぼくは好ましく思わないのか、それはマイノリティーとか弱者の云々とかそんなことではなく、もっと小説の根幹に関わる部分なのだけれど、とりあえずそれは置いておいて、引用のみだとちょっとわかり難いがかも知れないが、以上の「いまどきいるのか?」と思えるような、どことなく白痴的な状態である主人公(もちろん実際にそういう人がいるかどうかということはここではあまり関係なく、あまりにも平野啓一郎という小説世界のなかで、単に無力で滑稽すらない"笑えない"、卑下しただけの対象として描かれているように読んでいてどうしても思うのだ)と、それを取り巻く世界との根本的な力関係や、ふたりが相対する位置すら最後まで微塵もずれたり変化したりすることはない。つまりそれは、これを書いている平野啓一郎という世界を脅かすことは更々ないし、その世界に対してなにかしらのアクションをする余裕すらこの主人公が、平野啓一郎からもたせてもらってはいないということなのだ。そういった確固とし過ぎている主従関係がぼくに、手のひらの上に登場人物を乗せて見下ろしているような作者(まるで釈迦)のような視点を感じさせるのだろう*1。 さて、なぜ小説の描き方として、ぼくがそれを好ましく思わないというのかというと、そういった見下ろした視点で小説がはじまり、すべてが終わったとき、それらは単なる自己肯定──”作者の正しさ”や””作者の地位”や”作者という私のやすらぎ”を肯定や是認しているという項目(感想、感情)にすべてが回収される恐れがあるとぼくは考えるのだ。もうすこしつまびらかにいうと、幾らなにを書いても、”自分の正しさ”を肯定や弁解する為という行為や、若しくはそう思われてしまう可能性という穴に自ら陥ってしまっているのではないか。それは倫理的な問題を取り出して、どうこう議論するような問題ではなく、単に現代に於いて小説を読むという行為/メカニズムが、それらを必要としていないどころか、それらを敬遠したい側に集中しているのではないかとぼくは思うのだ。そういったものが通用/崇められていたのは、作家というものの権威が、作家という職業の裏に貼り付くように存在していたときではないか。──ちなみにいまそれらを代替えしているのは”一代で財を成した有名企業の社長の本”であったり””スポーツ選手の苦労話し”であったり”ドラ○ン桜”であったりするのではないか──結局このひとの小説が過信であったり、悪い意味での時代錯誤的なズレと片づけられたり、その一点で批評として事足りたようになってしまうのは、そのようなことから端を発しているのだとぼくはこれを読んで思ったのだけれど、結局最終的には小説という範囲が徐々に他のものに浸蝕されつつあり、その残された部分にのみ小説が存在するということだとぼくは考えているのだが、まあ風呂敷を広げ過ぎたと思ったときにはもうおそかったが、まあ、なんとなく、そんな感じなのだった。

*1:村上龍の小説には、力のある登場人物や物や作者自身の声が、そのまま登場するが、実は大抵ピンチにみまわれるのは”その作者”ではないか、それゆえ、ぼくはあのうざったさを、いい加減にしてくれと思いながらも、わくわくして読めるのだ