妄想の現場を撮ったゴダール/『気狂いピエロ』

気狂いピエロ [DVD]

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 新年なのだから、もう少し然るべき時期にあった映画というものを観ればいいのになぜだか『気狂いピエロ』を鑑賞したりするぼく。ダイハードとかゴッドファーザーとかロッキーとか男はつらいよ全編とか、なんとなく正月らしい映画を観ればいいのに救いがたい。別に正月から『気狂いピエロ』を観て自分の変さに自分で酔っていたいわけではなく、本当になんとなく手にとってしまって、なんとなく観てしまって、なんとなく観終えたのです。
 この映画に関しては(大概の映画や小説もそうかもしれないが)プロットとか人物とか小物に、なにかしらの意味や意図を付与することはナンセンスであると思うのだけれど、でも、やはりどうしてか観ていると自分なりに意味や物語を付与してみたくなったり、全体を貫いている主義主張はなんであるのか、と考えてしまう欲望に突き動かされる。それは偏にこの映画のなかでそれらが明確に欠如しているからだろうけれど、──ちなみにぼくはゴダールの映画でまともに観たことがあるのはこの映画と『勝手にしやがれ』ぐらいだし、ヌーベルバーグに関してぼくが語れることは、これっぽっちもないのだけれど、それでもなにかをやはり言いたくなってしまう(なんとなく白ワインでも飲みながら語り合いたい)のがこの映画なのだった。それだからぼくはこの映画がどのような方法で撮られたとか、どのような映画史的な位置づけで撮影されたのかは、まったくわからないのだけれど(調べれば恐らく少しはわかるだろうが、なんとなく調べる気がしない。それは怠惰からくるものではなくて、このまま知らないままでも、なんとなくいいやとなぜか思える)──ぼくはこの映画をいつ観ても妄想だと思う。妄想のような映像という意味の妄想でもあるし、妄想を映画という構造に填め込んだ映画であるとも思う。妄想が現前して、妄想が妄想ゆえにひとり歩きをはじめて、その妄想が最終的にあのような最後にならなければならないのは、やはり妄想が現実逃避の手段として生成されたからだろうからで、そしてそれは──観客に対して?といえばいいのか──剥き出しの妄想であったが故、帰すべき必然的な終結だろうとぼくは思うのだ。妄想を終わらせる手段は”我に返る”ことだが、その我はこの映画では妄想という曖昧な境界をくぐった途端に消失してしまう。(言葉にすればパラレルワールドで片方の世界がなんにも描かれないのとおなじといえばいいのか、いずれにしても、そのいりぐちはちょうどマリアンヌを助手席に乗せてふたりで喋りながら車に乗っているシーンだと思うのだが、まあ、そんなことはどうでもいい)。つまり我(現実)という戻るべき場所を喪失、忘却したなかで、その妄想(世界)を終わらせるのは、その妄想(世界)のなかにいる我を完全に消去するしか方法がなかったのではないか。(それにしてもパラレルをあつかった映画や小説や世界のなかで、分裂したどちらか片側が死んでしまうと、その両者共が無条件に死んでしまうのは、どうしてなのだろうか? ”そのどうして”はあまり重要ではないとしても、まともな説明がつかないにも関らず、なんとなくぼくらが納得してしまうのはなんでだろうか?)
 ちなみに妄想と夢とは違う。だがこの映画が妄想の割りに、なにもかも思い通りにならないのは、偏にその妄想がひとりのものではなく、ふたりの妄想であるからだと、ぼくは密かに睨むのだった。ふたりというのは言わずもがな、フェルディナン(ポール・ベルモンド)とマリアンヌ(アンナ・カリーナ)のことなのだが、互いの”我に返る”場所から言葉というキーワードによって喚起されはじめた妄想が、互いの思惑の違いや、キーワードがもつ──意図の見えない短さや、意味が抜け落ちたような引用や、単なるレトリックや虚飾の──不毛さにより、突然おかしな方向へずれたり、妙な力関係が産まれる。それだから、この映画は始終物語の安定性や一貫した物語を欠いているのではないかとぼくは思うのだ。
 おしゃれに関心のないフェルディナン、孤島で静かに暮らしたいフェルディナン、ゆっくりと本を読みたいフェルディナン、小説をしたためたいフェルディナン、他人と関わりたくないフェルディナン、紙幣を嫌うフェルディナン、このフェルディナンはフェルディナンだと思いたいフェルディナン。いっぽう、おしゃれをしたいマリアンヌ、静けさを嫌うマリアンヌ、踊りに行きたいマリアンヌ、ミュージカルが好きなマリアンヌ、なによりも事件に巻き込まれたいマリアンヌ、ヒロインになりたいマリアンヌ、誰かにさらってもらいたいマリアンヌ、フェルディナンをピエロだと思うマリアンヌ、ハリウッド的な死を望んでいたマリアン、──最後は言い過ぎだろう──ともかく、そんなふたりの世界がうまくいかないのは当然なのだ。*1
 ここまでいってしまうとやはり感想として行き過ぎなのだろうけれど、敢えていってしまえば、すべてが単なるひとりのベビーシッターの帰りを送る、現実に嫌気がさしている男が運転する車のなかで起きているのではないかとぼくはいつだって思ってしまうのだ。それぞれのお喋りの延長から産まれた、妄想として。

 余談:それにしてもこの映画を観ていていつも思うことは、この映画はみっちりとした、──それこそ歩く歩数や、手の動きや、視線までをも予めみっちりと決めてあったのか、それともほとんどがアドリブなのか、調べればすぐわかるのだろうけれど、なんとなく観ながらそのおそらくどちかであろう両極端なものの隙からあらわれる、ポール・ベルモンドアンナ・カリーナの身体的な動きが変におもしろいときがあるのだ。
 ぼくがいちばん好きなシーンは孤島の海辺で、こわれた波止場のようになところに坐るアンナ・カリーナが、フェルディナンと話しをしながら、なんとはなしに膝を掻く場面なのだ。なんだかその動きが、妙に生々しいというか、美しい海辺のシーンと合っていなくて、すごく印象に残るのだ。アドリブなのか素なのか予め演技として決まっていたのか。それを考えるだけでも、とても印象的な膝の掻き方なのだ。どこか性急で、どこか恥ずかしそうで、どこか子供っぽくて、どこか態とらしいのだ。

*1:ぼくはここで妄想ではなく、世界という言葉をつかったけれど、実際にそれが妄想とも現実世界とも見分けがつかないのは、そういうふたりが(男と女でなくとも)現実というもののなかで、気付かなかったり、なんとなく気付いていたり、どうもおかしいと思っていたりしながらも、なんとはなしにおなじ世界にいることは、実際現実としてありえているからだろう。