サルトルな朝(その1)/『部屋』

 朝起きると三時間しか寝ていないのに、どういったわけか、すがすがしい目覚めで、わけあって読むことにしていたのに読んでいなかった『水入らず』という短編集の中の、壁を思い出して探した。サルトルの短編のなかでもなかなかに評判のいい『壁』という行き詰まりを描いた表題通りの小説をベッドのうえで読んだ。サルトル自体を読むのがもう10年ぶりくらいで、どういった話しの流れかということを、おぼろげにおぼえていたのだけれど、それとは多分関係なく、とつぜん、すがすがしいと感じていたのはどうしてか、小説が終盤に差し掛かるころに気付いた。今日は単に鼻が詰っていなかっただけなのだった。ここ最近鼻の中が熟れてしまったように始終じゅくじゅくとしていて、赤く熟した、引っ掻けば破裂してしいそうな痛みを、鼻の奥でともないながら、毎日ずっと息苦しかったのだ。
 と、まあ、それはともかく。文庫本をひっくり返して、鼻がでないことを確認して、『壁』を読み終えて行き詰まりという性質と、あの有名な「実存は本質に先立つ」という言葉の関連を思い浮かべてみた。たぶん十年前もそれほど変わらないことを考えているんだろうな、と、使い古されたようなことしか思い浮かばなく、小説に対してというよりも、自分が持つ思考の剛構造や、感情の方に考えが行きかけていたのだけれど、文庫本をふたたび広げ、なにげなく読んだその続きの『部屋』という短編の出だしがすこぶるよくて、凄いとか、うまいとかを通り越して、蒲団のなかで、どきっとしてしまって『壁』のことは一時的にどうでもよくなってしまった。
 小説好きならば、小説の出だし、というものに一過言も二過言もあるものだけれど、ぼくもやはり出だしというものにそれなりの拘りがあって、悪い側面にそれが傾くと、自分自身がいちばんつまらない思いをしてしまうこともあるのだけれど、それでもやはりそこに過剰な期待を置いて、それでいて、よいと思える小説に会うと、読み終えた時に感じるじんわりとか、豪雨のように降り注いでくるとか、或いは気の利いた言い回しや、構造自体の美しさに気付いたときに沸いてくる、なにかを地中のなかに発見せしめたときのような喜びとはまた違った、出だしを読みはじめたとき特有の、あの冒険的な、自己喪失の狭間で揺さぶられるような楽しさとでもいおうか、作者のおぼろげな声がダイレクトに近い状態で届いてきて(幻想だが)、文章それ自体が浸透してきて、その浸蝕されているという過程が楽しめるような。作者の諧謔的な調子にいきなり殴られてしまうような──とにかく、言い尽くせないので、それを読んでいるぼく個人の肉体的な変化になぞらえてみると、ぼくの表情は、非常にニヤけてしまうのである。*1
 本文のはじめを抜き書きして記そうと思ったのだけれど、その前に読後に思ったことをすこしばかり書くと、個人の主観。(ここでは嗜好という一言で事足してしまうと)その個人の嗜好を、きちんと考慮したり、あたかもそんなものが当人同士には存在しないかのようにふる舞ったり、個人的な態度やぞんざいさからそれを無視して、なにかを薦めたり、なにかを褒めたり、なにかを貶めても、そこに落差や格差や温度差さが顔を出してしまう危険が、しばしば存在することを、たぶん誰しも経験したことがあると思うが(おそらく、後者に行くほどその可能性は増えてくるのだろう)その、いわゆる個人間同士の暗い溝という存在に気付いてしまったとき、自分の一方的で夢想的な態度、過剰な懸命さから、あの全身を蝕まれるような、一瞬のうちに自己が自己の過去に拘束されてしまうような、恥ずかしい。という感情がどっと沸いてくるのだけれど、そしてときに気が付くとそれが大気中にばら蒔かれてしまったように、鼻の頭を掻いたり、耳たぶを触るだけでも、非常に恥ずかしくなってしまうようなことがあるのだけれど、それでも敢えてなにかを薦めたり、薦められたりする意味とはなんであろうか。そう、ぼくは哲学者サルトル、小説家サルトルが書いた壁と部屋を読んで、最近もっとも興味のある書くということと絡めて思ったのだった。
 結局出てきたものは、盲目的にうつくしさを褒めそやしていたことに気付いたときに沸く恥ずかしさに似た言葉だけれど。やはり他者を知るということで、そこから、必要や意識の軌道や無意識の作用、その他諸々で、自己を放逐したり、咎めたり、慰めたりして、結局どこまでいっても自分の為。言い換えると自分という臭い、あるいは匂いや、ときとして香りは書くということから消えないではないか。そう思ったのだった。(そう考えてみると、要約当たり前のことに、当たり前というスタンプが押せるような気がする。そしてぼくは次の検査に没頭するのだが、当たり前というスタンプを押して、任意の脳内の○○課までその中身を検疫した言葉を届けるのかどうか迷うのが、もっともなにかを書くうえでの、理想的な態度だと改めて思うのが、これがなかなかに難しいものなのだと個人的に反省するのだった。ちなみにこの書くことと自己の不可分性が、どうして当たり前なのかというと、いまこれを書いているのは、恣意的な意味でも、消去法的な仕組みでも、便宜的でなくとも、他の誰でもなく”単に”ぼくなのだから) そうぼくは読後に思ったのだけれど、結局ぼくにとって書くという行為は、恥ずかしさの再確認であるのだろうか。と、つまりは思ったのだ。ちなみに、恥ずかしさというものには、個人差という区分けで囲むまでもなく、個人のなかでも、ときに求められる善であったり、阻害されるべき悪であったりして、それがぐるぐると対人関係的に変化するだけなのだとぼくは思うのだが、けれども、やはりなるたけならぼくにとって回避したいものなのであると思うのが、ぼくのどうしょうもないところで、それなのにどうしようもない行動や書き方を平気でしてしまい自家中毒的にときに悶絶するのだけれど。閑話休題。ちなみにぼくが思うに、その回避という方法をとる場合に小説のなかで使われるのが、ユーモアであったり、技巧としてのメタであったり、迂回であったり、わざと滑稽にふるまわせたりすることであったりする(しばしば子供が書いたものを読んで、或いは子供が書いたような率直過ぎる小説を読んで恥ずかしくなるのは、そういった面からなのではないかと、近頃ぼくは考えている)、そういう面で小説の三人称というものは、書く側にとって、なにかしら重要な役割を担うと思うのだが、それについては、まだ考えが纏まらなく(恐らく、書く側にとって一人称と三人称というのは、なにかとの距離がかなり違うのではないかと思っていて、その違いを考えてみると、ちょっとおもしろいのではないかと思ったりしている)
 長々と脱線したが『部屋』という小説に触れると、『部屋』は三人称ではじまる。(その2に続く)

*1:それ故、ぼくにとって本屋での立ち読みというものは、サルトル的にいえば、恐らく実存的な危険が伴う行為であるのだけれど、ひとりベッドの中で読み、今朝は自己嫌悪というもの以外はなんの危険も伴わないものだから、それなりに鼻も通っていたものだから、存分ニヤニヤできたのだった。