現実という見通しのわるさ/『エレファント』

エレファント デラックス版 [DVD]
 テレビをつけたらWOWOWでやっていたので見入ってしまった。コロンバイン高校の銃乱射事件を扱った映画なのだけれど、構成が非常に変わっている。被害者と加害者をそれぞれごったに交錯しながら捉え、ひとりひとりを背後からの映像で捉えていくドキュメンタリー的な方法で撮りながらも、その個人間の視点の移動や、映像自体にどこか気持ちの悪さが常に存在している映画だった。個人から個人へとカメラ、つまり視点が移動する際に、通常なら目安になるであろう物語的な区切りや、移動(学校内だから歩行)という終着もなく、突然カメラが視点を変えることが多々ある。視点といっても、1人称的な人物の目線に合わせてのアングルではなく、この映画ではカメラは常に人物の背中を映し出している。つまり、その人物がなにに欲望を感じ、なにに根本的な不満や不安を抱えているのか、はっきりとわからない映像が延々と続く。そしてそのカメラアングルは背後霊的にずっとその人物の背中を収めているのかというと、決してそうではない。あたかもカメラの不安定さ自体がその人物の不安定さを表しているように、観客の期待や、平衡状態を無視して、関係のないところへカメラが始終移動しては、戻ってきたりする。画面に向かってこちらがなにかを探るために思わず眼を細めてしまったり、顔の角度を変えてしまったりする。
 例えば女の子3人をカメラが追っていて、カメラも一緒に食堂へはいったのかと思うと、とつぜんそのカメラは女の子たちの背中から離れて厨房へはいっていってしまったりする。そしてそこでなにかしらのドラマがあるのかと思うと、なにも起きないままに、ふたたび食堂の女の子たちの背中に戻ったりする。他にトイレのドアのようなものへはいった男の子がその暗闇のなかへ消えたのかと思うと、とつぜん追っている人物が女の子へ変わり、なんの説明もなくその男の子へ戻って、実はその男の子がはいった場所はトイレなどではなく、カメラの現像室であるとわかったりする。つまり、観ている側の習慣や期待や予測をまったく無視して、カメラはなにかの意志に操られているようにひたする映画という習慣とは関係なく動き続ける。そしてそれが観ている側に、視界の悪さからくる、気持ちの悪さとして常につきまとう。ピントの曖昧さや、通常の映画ではありえない遠近やアングルからの映像もそれを後押しし、それがあたかも背後からの視点の連続(延長という間延びからの続きではない)として続いていて、通常の映画のように登場人物たちのなにかしらの要素が、その不安となるアングルを作り出しているのではなく、その不安に始終人物たちが犯されているような、いわば乖離的な映像が続くのだった。(その隔離は、ドン・デリーロのボディーアーティストのような心と身体の乖離的な問題だけではなく、そこに更に外界を足したような3つどもえの得体の知れない纏まりのなさを顕在化させている)
 そのような見通しの悪さ、つまり観ている側からして感じる気持ちの悪さが、どういった作用を及ぼすのか。それがこの映画の正否のポイントであるとぼくは思うのだけれど、ぼく自信はこの映画を観ていて、あたかも登場人物以外に別の人格──人格というのにはあまりにも無機質で、欲望や意図が感じられない──つまり別のおおきな見えざる力や影響が、常にこの映画のなかに存在しているように感じる。つまり、この映画の意図が高校生というわかりやすいマスコミ的で思春期という典型的な個人という構図から外れて、ただひたすら不可解なものをその銃撃事件のなかに提示しようとしているのなら、おそらくこの映画は成功ではないかと思う。
 ムーアがボーリング・フォー・コロンバインで主に提示したのは、銃社会というアメリカの暗部(それは最早暗部でもなんでもなく。たとえば西部劇でみられる銃の乱射を現在観つつ感じることは、娯楽を超えて、単にいまではファルスというであり、銃という殺傷は根源的な悪であるというイメージをわかりやすく過去を忘れ、いまムーアなりアメリカ人は、なにかの身代わりや、表出として持っただけなのだと思うのだが)であったけれど、このガス・ヴァン・サントのエレファントという映画は、それよりももっと感じやすいながらも、複雑で、わかり得ないものが、存在することを、わかり得ない形ながらも存在だけでも提示しようとしているのではないかと思った。
 この映画のモチーフとして空虚さというものもあると思うが、それが登場人物たちの意味のないおしゃべりだったり、子供っぽさだったりして、その辺も実に軽微にだるそうで、日常という緊張感のなさが表現できているように思う。昼食をとりおえた女の子3人が体格の話しをしながら手洗いにはいって、全員で吐いたり、その女の子のひとりが食堂で別の女の子を友達とカレシとどっちをとるかといって真剣にとがめたり、体育の授業で短パンをはくことを意味もなく拒むあかぬけない女の子であったり、なにかを観れば感覚だけでシャッターを押してみる男の子であったり、友達の家のベッドに座り銃を撃つゲームをしている男の子であったり、病的にベートーヴェンエリーゼのためにとムーンライトを弾く男の子であったり、(*1)、意味もなくいじめられているその男の子だったり。それがこの短い映画のなかで永遠と続いていくと思うと、観たばかりでもうんざりとしてくるのだが、実はそのうんざりとする退屈さは決して映画のなかのことではなく、観ている側の映画とは関わり合いのない日常のなかで、それこそ永遠と存在しているはずであり、それを観ている側が思い出したとき、はじめてこの事件の恐ろしさと、映画のなかでの意味のわからなさが、交錯してくるような映画だった。

*1:エリーゼのためには異様にうまいが、ムーンライトがいかにも素人っぽくへたくそなのは、エチュードとしての役割と、ソナタとしての役割としてのなにかしらのメタファーか? などとあまり考えてしまわないのがこの映画の特徴で、それこそ登場人部たちの内面自体がよくわからないことから、そのような蛇足的な意味の追求はどうでもよくなってしまう