小説としてのサルトルの小説/『部屋』(その2)

水いらず (新潮文庫) 

ダルベダ婦人はトルコ菓子をつまんだ。その上にふりかかっている砂糖の薄い粉を吹き飛ばさないように息をひそめて、静かに唇に近づけた。薔薇みたいな香りだわと思った。そして不透明なその肉にふいに噛みついた。口のなかが、腐ったような香りでいっぱいになった。病気になるとこんなに感覚が鋭敏になるなんて変だわ。回教徒の寺院や、お追従的な東洋人のことが思い出された。新婚旅行でアルジェに行ったことがあるのだ。青白い唇にかすかに微笑みが浮かんだ。トルコ菓子もまたお追従的だった。
 読んでいる本のページが、注意していても白い粉でおおわれてしまうので、何度もくりかえしてその上を、手のひらで払わなければならなかった。すべっこい紙の上を、砂糖のこまかい粉末が、きしった音をたててころがり、すべった。アルカションを思い出すわ。あのときは砂浜で本を読んでいたっけ。一九〇七年の夏を海ですごしたのだった。緑色のリボンのついた大きな麦藁帽子をかぶり、ジップかコレット・イヴェルの小説を持っていって、堤防のすぐそばに陣取った。風が吹くたびに膝の上に砂がいっぱい降り注ぐので、ときおり端をつかんで本を振らなければならなかった。それとまったくおなじ感覚だった。ただ、砂粒はかわいていたが、砂糖の粉末は、すこし指先にくっつくのだった。黒い海の上に、帯のようにひろがっていた、蒼味をおびた灰色の空が思い出された。エブはまだ生まれていなかった。自分の体が思い出にすっかり重くなり、香気の手箱のように貴いものに感じられた。そのころ読んでいた小説の題名がふいによみがえった。それは『かわいい奥さん』という作品で、退屈なものではなかった。しかし、えたいの知れない病気にかかって寝室に閉じこもりがちになってからは、回想録や歴史の本が好きになった。病気の苦しみや、まじめな読書や、思い出とか、きわめて繊細な感覚に向けられる周到な気のくばり方などによって、自分が温室の美しい果物のように、成熟すればよいのにと思うのだった。

 どこまで引用しようかと迷って、結局ぼく自信が感嘆としてしまった三分の二をまるまる移してしまった。一部分だけでは、どうしてもうまく伝わらないと思ったからで、それはつまり連綿としながら、変奏曲の主題のように切れ目なく表情を変えながら、ダルベル夫人が持つ物憂げさや、過去に対する郷愁や、現在の退屈さと置かれている状況。”ダルベル氏の夫人”という社会的なポジションさえも、この冒頭が暗に示しているからで、どこをどう抜粋しても、この見事さがうまく伝わらないと思ったからなのだ。そして、それでいて一切説明的なところがなく、どこか気ままで、本来的に人間が持ちそうな感情の経路を辿りながら、恐らく身分から来るであろう、ちょっとした放漫さや、自己愛を含んだ言葉(引用最後の比喩)に包括的にたどり着いてしまうのが、またなんともすごい冒頭だとぼくは思って、読みながらどきどきとしてしまった。ちなみに続きもまたすばらしいのだけれど、この短編自体が傑出しているのかといえば、残念ながらそうではないと思ってしまうのが、小説という決まった方向へと読みすすんでいく行為が持つ悲しいところなのだとぼくは思った。
 誤解を避けるためはじめにいっておくと、駄目とか、失敗とかと形容するほどこの小説は駄目でも失敗でも全然ないとぼくは思う。それだから、どう言い表そうか、迷うところなのだが、出だしの高揚が、徐々に終息していくような気分というのか、期待で高まっていた感情が、みょうに冷静になっていくような。恋が冷めてしまったような、寂しさをぼくは読んでいて感じてしまった。それほどこの小説の出だしは、すばらしいとぼくは思い、出だしのうつくしさに引き摺られて読んでいると、自分が冷めていく様があまりにも悲しいのだけれど、それゆえ、やはり諸刃的なまでに、ぼくはこの出だしはすごいと思うのだ。ただ、ひょっとしたら、というか、おそらく、『部屋』の冒頭をこんなに褒め称えるのはぼくくらいで、そう思うと、突然我に返って恥ずかしくなるが。──まあ、それはともかく、どうしてこの調子でこの小説をサルトルが最後まで書ききらなかったと疑問に思ったのだが──ぼくの読む限りでは、ダルベル氏が登場してきた後半あたりで、明らかに小説としての雰囲気や傾向が変わってしまっている──、やはりそれはサルトルが哲学者(もっと大きな区分けでいえば思想家)であったからだとぼくは思うのだった。
 モーリヤックを批判した記事で、あくまでも記憶に頼っているだけなので正確ではないかもしれないが、サルトルがモーリヤックの小説作法のうちの、「私は自分の創作人物がこちらにあがらい、こちらが行わせようと決めていた行為に反抗の姿勢をとるときのみ、自分の仕事に満足を感じる」という内容を批判していて、*1つまりサルトルはプラン通りに小説がすすまないと、自分の場合は小説ではないと思っていたわけだけれど、それはやはり小説と哲学を融合させようとした(実際にした)極めてサルトルらしい考え方で、この小説が冒頭のようななめらかさと広がり方を拡大していくことを律するように、サルトルはこの小説を堅牢で、溝みたいなものに見事に中盤からはめ込んでいる。
 なにかを完全に代言することと、小説という行為は、そうするとある一点を超えると飽和的に、矛盾するということになるが、その矛盾の存在のなさがぼくがこの小説に感じたおそらく悲しさの正体の一部であるかもしれない。
 ちなみにぼくは、星野智幸の小説に極めて近い方法論のようなものを感じるのだ(ヲロシヤ人はまだ未読)。

*1:「そんなこというわりに、あなたは作中に何度も顔を出して、登場人物の心理や行動の説明をしているではないか」とサルトルに批判され、へこんだモーリヤックはしばらくのあいだ小説が書けなくなってしまったということを読んだ記憶がある