ブログやっててよかった

アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人 / ジョルジョ・アガンベン
 非常に興味深く拝読させていただいて、なにかをどうしてもコメントさせていただきたいような気持ちになったのですが、なにをどうコメントしていいのやらといった具合に、くらくらと来てしまって、とりあえずトラバということで、自分のところに触発された色々なことをば。
 やはり極私的なことで、ここに書くのが相応しいようなことなのだけれど、ぼくが個人的に、なにかを発しようするとき(その言葉ほど大したものではないが)若しくは<発した瞬間><発したあと>に感じる恥ずかしさというのも、なるほど、おそらく

「回教徒」という絶対的に自分ではないものの中に、自分を見出してしまうこと、すなわち「脱主体化」という経験を経由して、その鏡像のような「他者的主体」を、しかし再度自分のものとして自己の内密性として取り戻させられる。つまり「いやおうなく立ち会うよう呼びつけられている」のである。この見たくないものの中に自らを見出して、そういう「脱主体化」された自己を通してしか「再主体化」できない「主体」である「証人」たちは、激しい「恥ずかしさ」を感じざるを得ないのだ

 まさにそういうことだと、改めて気が付いたわけです。ぼくは過去の日記に、恥ずかしさが湧き出る瞬間の感覚を【一瞬のうちに自己が自己の過去に拘束されてしまうような】と書いたわけですが、ぼくはここである間違いを犯していたといことに、気が付いたわけなのです。ぼくがしていた──願わくば誤謬といえる──間違いは、ぼくが過去に取り上げた場合の恥ずかしさは、【発する→不理解を感じる→発した自分に足下を掬われる】といった過程。すなわちぼくは、自己完結的な輪のなかに恥ずかしさという感覚を見出していたわけですが、実はぼくはこの【発する→不理解を感じる→発した自分に足下を掬われる】という願わくば遭遇したくない連関のなかで、他者というものを、無意識的に想定外に追い遣っていたわけなのです。
もうすこしつまびらかにいうと、ぼくが恥ずかしさを後に感じるかも知れないと思うとき、ぼくはどのような状態が恥ずかしいことであるのか、つまり【自分ではないもののなかに、自分を見出してしまう体験=脱主体化的な体験】をぼくは既にしていなければならず、ぼくがその体験をしたとき、そこに脱主体化の対象としての他者が居たはずなのです(小説でいえば、たぶんトラウマにあたる部分なのだろう)。
 そして問題はぼくが他者がよく見えずに(不特定な他者といってもいい)なにかを発するとき、そしてそれをぼくが想定したとき、ぼくはどのような他者を想定しているのか、ぼくはどのような他者を相手に想定したときぼくは後に恥ずかしさをおぼえるであろうと思うのか、それをぼくは意識的・無意識的に恥ずかしいというもののなかで停滞したまま、隠蔽していたわけなのです。ぼくがときおりとりあげる恥ずかしさという感覚は、そこを抜けて、その対象に向かってから、その対象とぼく自信の関係、その対象がなぜ対象になり得るのか、そしてぼくはその人たちをどうして恥ずかしいと思うのか、若しくはぼくは恥ずかしさをどうしてそのひとたちに明け透けにしないのか、この見たくもないもの、という領域にまで向かわなければ、ぼくがいう恥ずかしさは、おそらく新たな展開へと、──たとえそれが小説的であっても──発展しないわけです。
 そこにある壁、若しくは溝の形は未だにおぼろげなものの、向こう側にあるものがうっすらと一瞬だけ見えたような、自分の視点が別の物に向かって広がったような、大変有難い体験をさせていただいたわけでありました。