牛タン豚タン

 例のひと(10.24不覚)からまた連絡が来て、「日記に強がったこと書くねえ」といわれた。きれいごと過ぎるとか、あざといとか、つまらなさの定義が曖昧だとか、おまえの書いてる物がいちばんつまらん、とかいわれるのかと思ったら、強がったこと? 
 どこの部分をさしていっているのかわからないので尋ねると、いきなり「中田と松井ゴールしたねえ」などとサッカーの話しをしてくる。「そもそも文句ばっかりいうなら、見るなよ」というと、「いや、気になるから」と率直なのか、幼稚なのか、はぐらかしているのか、なんだか拍子抜けしてしまった。
 それでも電話を切ったあとなんだかやっぱり気になり出し、頬杖なんか付きながらディスプレイを眺めていると、自宅の電話が鳴った。出ると、Kさんだった。「夕飯食った?」というので「食べてない」というと、「焼き肉いかね?」といわれる。もちろんおごるし。ということで、出掛けることにした。
 それにしても、出仕度をしながらもやっぱり気に掛かるものは気に掛かる。なんでそんなに気に掛かるのかといえば、自分でもさっぱりとわからないのだ。くしゃみが出ずに停まってしまったように、気持ちが悪くて仕方がないのだった。例えばそれが、村上春樹の小説に登場するような女の子だったらと、ぼくはなんの脈絡もなく考えていた。その割りかし冗談に寛容で、必ずなにかを抱え込んでいて、絶対にその秘密を明かそうとはしない、いわく胸の形が良い女の子が、ぼくが書いたものに向かって、そういう意味深なことをいったのであれば、ぼくは桃色の深淵に包まれて、妊娠中のカモノハシのように苛々としない筈なのだ。だが、単に昔からの男友達にいわれると、迷惑このうえなく、腹立ちの対象になるだけなのだった。さもなにかありそうな言葉を自分自身で使ったり、言ったりすることに関してひとは寛容なのだが、他人にいわれると誰だって機嫌を悪くするものなのだ。
 それにしても、村上春樹の小説に出てくるような女の子は、実際にいるとしたらどういうところにいるのが、相応しいのだろうか? 通りかかった車の助手席や、コンビニの窓ガラス、郵便ポストや、電柱の看板をときおり見上げながらぼくは焼き肉屋にいった。
 パチンコ屋の二階の焼き肉屋だったので、いわれたとおり探すと、Kさんはスロットマシンの前にいた。換金はもう終わったらしかった。焼き肉屋に入り、メニューを開くと牛タンの値段のうえにシールが貼ってあった。そういえば輸入問題はまだ解決していないと思い出したのだった。数年という単位で問題となってる割に、なにかの機会でもないと、すぐに忘れてしまうのだ。
 豚タンにも値段のシールが貼ってあった。経済の運動ゆえか、それとも単なる店の便乗か? 考えてもわからないし、聞いても教えてくれるはずはないのだった。よくわからないままにぼくは、今日は誠に残念だが、”特上”が付く肉以外は、宗教的な問題で口に出来ないと、Kさんにいってみようと思った。