小市民

「もし、よろしかったら、寄付をお願いしているのですが」と、いわれたものだから、ぼくはよろしくないので、「それは、嫌です」と断った。そしたら、その女性は明らかに機嫌を悪くしたようで、「みなさん、払ってくださってますから、次回の更新時にはお願いします」などと、じっとなにも載っていない青色のトレイに目を向けながらいってくる。いや、だって、寄付でしょ? だってさ強制じゃないんでしょ? とぼくの顔に出たのか、その女性は更に続けて、「それから講習中は寝ないでください」と、どこか乱暴に払い込み用のトレイを引っ込めながらいった。
 最後の”寝ていた”ということに関して注意されたのは、まあ、ぼくが寄付を断ったこととは関係がないのかも知れないが、それにしても、警察署というある種の力の象徴の中で、そこの建物側の人間であるとひとめでわかる人間が、交通安全協会とはいえ、”寄付”という言葉を使ってなにかを回収するのはいかがなものかとぼくは思った。まあ、それについては方々でいわれていることだし(たぶんね)、対局にいらっしゃる方々とおなじことをしているなどと指摘したところで、ほとんどいわれ尽くした感があるから、よしとしよう。
 それにしても、こういった国家機関がつくった特に交通安全の講習ビデオというものは、どうして、まあ。ここまで昔から一貫して退屈なんだろうと、ぼくは再びソファーで坐って待ちながら思った。そのくせブラウン管の中で動いている人たちの服装はよく見ると今風で、──ビデオの中ではまししく”ナウ”な感じという言葉がぴったりだった。──車に関してもプリウスとか、新型Zとか、DVDナビゲーションの高精細な画面などがアップで映っているから、結構頻繁に撮り替えているらしいとわかった。
 それにしても、つまらない。といっても、つまらなさには色々な種類があるとぼくは思った。この手のビデオのつまらなさというのは、まさに狙ったつまらなさなのだと、あまりの退屈さにぼくは気付いたのだが、その狙ったつまらなさというのは、あまりにおもしろさを狙いすぎた所為で、それが反対の効果に生じてしまう、いわゆる見る側に自己反省を促してしまうような、耐え難さではなく。また、ダラダラとした抑揚のなさからくる、飽きるというつまらなささえ変に超越しているように思えた。別段平坦だといっても、見ようによっては車が突然衝突したり、緊張感ある音楽を流し、決して山場がないわけではないし、平坦でもおもしろい映画や小説は山ほどある。
 そもそも、その起伏や臨場感が視聴する側に、どうしておもしろさという期待感や高揚感を与えないのかというと、やはり、こちら側におもしろくなってはいけないという、作り方をしているからとしかぼくには考えられなかった。
 つまらなさからはみ出すもの、つまり、その窮屈なつまらなさに”反する”ものだけではなく、そのつまらなさの枠からはみ出す、彼らにとって、要するに「不真面目だとか」「国が受け持つ機関的ではない*1」と、突っ込まれてしまいそうなリスキーなものを、わざと排除してビデオは作成してあるのだ。
 おもしろさが、リスク(突っ込みどころ)になってしまうというのも、なんだかそれ自体がおもしろく、ぼくは気になって、誰も彼もがやはりおもしろくなさそうなのかと思って見回すと、やはりそれなりに退屈そうな顔をしており(連れられた幼稚園くらいの男の子まで暇そうにしていた)、かといってそのおもしろさが、リスクに転じてしまうことから生じるおもしろさは、ビデオをつくるように依頼した公的な機関や、頼まれてつくった側、ぼくと一緒にビデオを見ていた人たちとは関係なく、ぼく個人のなかでしか存在しないおもしろさなのだった。けれども、それがぼく個人のなかにしか生じないのかというと、そうではない、そうぼくはいつでも考えたいのだ。
 結局ぼくがそのとき目を瞑ったあと考えたのは(視界を塞ぐと考えに集中できるのだ)、やっぱり小説のことで、そういったぼく自身のなかにしか、ひょっとしたら生じていないかも知れない様々なものが、小説というまったくの他人が書いた物のなかで、ふと重なり合ったり、触れ合ったりすると、ぼくのその小説に対する信頼感は増し、ぐっと引き込まれるのだ。
 それはともすると、単なる安心感や、自己充足のやすらぎ、意地悪に考えると誤謬や欺瞞なのかも知れないが、それはぼくは小説というもののなかの要素でも、大事な部類にはいるものだと思うのだ。ひとを安心させたり、独りではないと教えてあげることが、実際にどれだけ難しいか。
 さて、そんなことを考えてひとりごちていたら、婦人警官に無言で肩を叩かれた。目を瞑っていたので寝ていたと勘違いされたらしい。まあ、見ていないことには変わりがないと思った。眼を向けると、画面にはちょうど、信号機のない交差点での減速を促す映像が流れていて、フロントガラス越しに、画面の外側にいる人間が運転しているようにその映像は撮られていた。ハンドルの上部だけが画面の下側に不自然に映っていて、停止という文字がフロントガラス越しに迫ってきていた。
 それにしてもぼくの写真うつりが悪いのは相変わらずで、出来たばかりの免許証を受け取ったとき、あまりの凶悪そうな面がまえと、憂鬱そうな顔に自分自身でたじろいだ。後ろに受け取り待ちの人がいたのですぐに札入れに入れた。鏡に映った自分のおぼえのある顔と、まったく違うのだ。
 今日は一時間あまりのあいだ、その警察署にいた。

*1:そもそも、国が受け持つ機関に人々が真面目さを求めるのは、特に間違ったことではない。常に真面目(言説が真)でなければ、国民が国家というものに希望する役割自体の基盤が危うくなるからだ。それでも"おもしろさ"と"真面目さ"の間にはなにかしらの隙間や猶予みたいなものがあるはずで、その猶予や隙間をまったく無視して活動する態度がまさしく国家機関的で、ぼくらがしばしば”融通”がないだの”あそびがない”だのいうのは、国家機関が、より(若しくは過剰に)国家機関としての役割を自覚しているからだ。