エイミーと弘美さん/『風味絶佳』

風味絶佳
 ぼくが読む本の総量の、女性作家と男性作家を推量で比率にしたら、だいたい1:9くらいになるのではないかと思う。なぜそうなるかというと、一冊つまみ食いしただけで、そのままその女性作家には大抵ぼくの興味がなくなってしまうからだ(作家の問題ではなく、ぼく個人の嗜好の問題です)。柳美里はなんだか異様に力んでいるいし、小説を書くことより作家であることが大事みたいだし、笙野頼子はなんだか身体のバランスが悪いし、頑迷だし、小説はものスゴイ飛んでるし……。とにかくあまり女性作家を読まないので、偉そうに語ることは出来ないが、どうしてか川上弘美だけはぼくの嗜好に合う。なにが嗜好に合うのかというと、あのふわふわ感も割と好きだが、あのスケスケ感もたまらない。まさに風が吹いたらひらひらと宙に舞って、しまいには風の方が重量を増してしまうのだけれど、ふわふわだけでもスケスケのそのどちらか一方だけでは、その文学的な( ううむ、曖昧だ!)風を、このような形で受け流すことは出来ないのではないかとぼくは思う。このひと、ホントに隠し事ないんじゃないかとみょうな気がかりが沸いてくるほど、明け透けに小説内でわたしをほいほいと吐露し、手を繋いだだけで、するすると川上弘美は服を脱いでしまうのだけれど──勿論それは、小説と作家の存在論的な違いをぼくが無視しているわけではなく、あくまでも小説から生じる川上弘美という作家は──、それが単なる男根世代の作家に媚びているのか、週刊誌的な告白ネタを提供しているとも思えなくないと思ってしまうのは、ぼくが男性であるが故なのか、はたまた性格が悪すぎるかどうかはよくわからない。とりあえずひとつだけ思うことは、川上弘美=小説の主人公のラインが彼女の小説は妙に強すぎる部分がある。乱暴にいえば私小説として彼女の小説をたまに読んでいる自分に気付く。ちなみにぼくが川上弘美の小説を、私事の小説的に読んでしまうのは、やはり小説内の<わたし>の外線(外の線だけです)が揺るぎなくくっきりとし過ぎているからで、その輪郭の強さが──しつこいけど輪郭だけです。殺人現場の白線を思い浮かべてください。風景は透けて見えるのだけれど、奇妙で孤絶的な輪郭があるのです。そして、川上弘美の”わたし”は、その一本の白くどこにも溶け込まないロープだから独特に変なのです──人によっては物足りないと思う要素になり得るかも知れない。ただ、ぼくはその紐の内部に本当はある自分の意識をゆるさに、そしてそれをとぼけや行間に変換できる川上弘美はちょっと凄いひとだと思ったりもするのです。
 さて、前置きがちょっと長くなりましたが、山田詠美/『風味絶景』の間食という短編について。ちなみに連作の一作しか読んでいないのに、なんで書こうかと思ったのかというと、続きを読むかどうか、いまのところはっきりとわからないからなのです(なんか偉そう)。
 ちなみにぼくが山田詠美の小説を読むのはこれが二冊目で、一冊目に手に取ったのが『4U』という短編集だった。そのはじまりの小説が、好きな男の風呂の残り湯だったら飲める! えっ?!はい捨てましたとも。ええ、ちょっと行き過ぎちゃったんです、ぼくも、山田詠美の小説の登場人物も、それとぼく実は風呂に入りながら読んでいたのです。
 さて、『風味絶佳』谷崎賞を取ったそうな。ついでにブックカバーもキュートでいいし。ということで風呂にはいったあと買ってきました。
 山田詠美は女だなああ。とぼくは思う。まるで金太郎飴のようにどこを切っても女だ。それを川上弘美と比べようと思ってぼくは敢えて川上弘美から書き始めたわけだけれども(ついつい好きなので書きすぎてしまった)、川上弘美山田詠美を比べる自体、そもそもなんの意味もないといまになって思い始めた。まあ書いた手前、両者を女の小説家という枠組みだけで、緩く比較してみると、川上弘美のオンナ性というのは、外周部分だけで成り立っている。もうすこしつまびらかにいうと、女性という脱ごうと思えば実は脱げるんじゃないの? 的な皮一枚だけで、このひとのオンナ性というのは成り立っているような気がぼくはする。(けれどもそれを脱いでしまうことは同時に、彼女のわたしが完全に風景と一体化してしまうときでもあるのです)
 紐が囲った中身の方から言及すれば、川上弘美のその輪郭の向こうは、オトコ性もオンナ性も社会性も、なんやかやがすべてごったになっていて、血や骨、いわば小説的バックボーンはそういった色んなものから構成されているのに比べ、山田詠美の小説は、100%オンナである。もう揺るぎがないくらい女なのである。上記で述べたように、血や骨までが、オンナであることを自覚しているように、(若しくはオンナであることをあたかも疑ったことがないか)小説内で振る舞う。鳶職の雄太は間食相手である花を抱きしめてこう思う。

雄太は、ベッドに横たわったまま、花を背後から抱き締める。小さくて柔らかい塊。縫いぐるみを抱いて寝る女の子の気持ちが良く解る。腕の中にいれるために存在するもの。頬をこすり付けて、自分の匂いを移すためにあるもの、噛んだり、羽交い締めにしたり、つねったり。可愛がりたい気持ちが行き過ぎて、ついそんな行動に出てしまう対象。『間食』

 小説内に男を書くことではなく、あくまでも山田詠美は(この小説に限ってかはわからないが)、自分の女という中にいる男(彼女の理想像だからオトコという性ではない)を書いている(オンナという視線をとおしてオトコを描いているわけではない)。勿論それは良いとか悪いとかではなく、ぼくが川上弘美のふわふわスケスケを好きなように、あくまでも好みの問題である。なにも山田詠美に中上健二のようなオトコを描けとは誰もが思わないように*1。まあ、そういうことを踏まえた上で読み進んだわけが、間食だけを読み終えた段階で、ぼくは山田詠美の小説内でのリアリティーというものが、オンナという以外はうまく伝わってこなかった。そもそも山田詠美の小説にオンナということのリアリティー以外を求めてはいけない? ちなみにぼくがここでいうリアリティーとは、たとえば

「きみは、人を殺したいと思ったことある?」〜略
「なんだ、それ」
「ぼくは、いつもそう思ってるから」
「……誰を?」
「世界じゅう全部の人」〜略
「こえーこと言うなよ」〜略
「雄太は怖いものがいっぱいあるんだね。ぼくにも沢山あるんだけど、きみとは全然違うものみたいだ」

わざわざブンガクするためだけに、こういったセリフを言わせる登場人物を、無造作に小説内に放り込んだりしないことだ。

「嘘だろーっ!? おれなんか場違いだよ、こんなの着て、ここにいるの」
「そぐわないって、可愛いじゃないか。ぼくは、たぶん、(喪服が)似合いすぎてると思うんだ」

 女性作家といえば、すっかり忘れていた、そうあの人。いつものぞかせてもらっている、「モウビィ・ディック日和」さんで綿矢りさの『インストール』に触れられていた。『蹴りたい背中』もまだだしちょっと読みたくなった。
 http://d.hatena.ne.jp/ishmael/20051023/1130072913

 最近読んだ女性作家のなかで一番よかったのは、ジュンパ・ラヒリだ。
 それにしても、まったりとやっても、書くのに二時間掛かった……。ううむ……。

*1:けれども、その割り切り方は、それはそれで、さびしいような気もする