喜劇とは、役者とは誰のことか/『キング オブ コメディ』

キング・オブ・コメディ [DVD]
ものすごく、といっても多分5、6年前になるのかと思う。テレビに高木美保という女優が出ていて、古舘伊知郎と喋っていた。おしゃれカンケイとか確かその辺の番組だと記憶しているけれど、那須に農地を100坪ほど買った。と高木美保が説明していた。ぼくが、農地? と思って観ていると、楽しくて仕方がないんです、というようなことを高木美保がいった。写真が出てきて、ほっかむりをした高木美保が、しゃがみ込んでトマトかなにかの苗を土の上に植えていた。写真の後ろでは陽が照っていた。化粧はしていなかった。そういえば、ここ最近観ないな、とは思ったけれど、特にまあっ、と番組を変えようとしていると、高木美保が、自給自足が夢なんです。と口にした。
 変な書き出しだけれど、ぼくのなかでいまでもよく憶えているこの番組(この回だけ)と、この映画は変に繋がっているのだ。『キング・オブ・コメディ』スコセッシとデ・ニーロのコンビの映画だ。ふたりについては説明不要だと思う。『タクシー・ドライバー』について今更どうこういっても仕方がないのもおなじなのだ。それにしても、ぼくはこの映画が恐ろしい。恐ろしいといっても、いまでいうストーカーの走りで、そのストーカー役のデ・ニーロの演技があまりにも秀逸だとか、もうひとりのストーカー役ダイアン・アボットのどこかしまらない衣装までもが、板に付いているとか、そういう誰もがだいたい思うことから来る恐ろしさが、ぼくはそら恐ろしいわけではなく、じりじりと、ときにはざっくりと、それからグサリとやられてしまう、その自分自身の痛みを観る度に感じて、その痛みから恐ろしくて逃げたいのだ。
 簡単にさわりだけいうと、ジェリー・ラングフォード演じる喜劇役者(このひとは本職も喜劇役者)をデ・ニーロ演じる、ルパート・パプキンがダイアン・アボットと非友好的ながら、目的の一致を見て粘着的に追い回す。そして、計画を実行に移す。それがゴルバチョフ就任、スーパーマリオ発売の1985年に作られたストーカーものなのだ。
 ぼくが恐ろしいと思うのは、この映画でデ・ニーロ演じる喜劇役者パプキンが、おそろしいほどに真剣だからなのである。パプキンは真剣だから、当たり前のように執拗である。執拗なのは、ストーカーの特徴なのだ。今現在から観ても、その執拗さは、ストーカーとしてしっくりきている。ちなみにぼくがこの映画で感情移入するのは、追われるジェリーでも、屈折した愛情を持つアボット演じるリタでもなく、将来を熱烈に妄想しているパプキンになのだ。
 よって、ぼくはこの映画のなかのストーカー行為を恐ろしいとは思わない。ぼくは追いかけるパンプキンに夢中になり、いつのまにかぼくはパプキンの滑稽さを笑えなくなっているのだ。パプキンは滑稽だ。しかも真剣に滑稽なのだ。つまり、滑稽なのだと、自分でわかっていなくて、それがなお滑稽なのだ。だがそれを観ていると、どうしてか胸が痛むのだ。同情とか、悲しい痛みではなく、自尊心が傷つくようなきりきりとした痛みなのだ。それにしても題名を思い出してまたぼくはぞっとする。『キングオブコメディ』、まだテレビにも映ったこともない喜劇役者デ・ニーロ演じるパプキンが、コメディの王様なのである。彼はまともに名前すらおぼえてもらえないのである。パンプキンではなく、パプキンなのである。
 王様の部屋には映画中セットが出てくる。セットといっても作中の部屋を部屋たらしめんとするセットではなく、コメディの舞台セットがひとりの男の自室のなかに出てくる。しかもパプキンの手作りだから、ちいさくて貧素でよく観るととても見すぼらしい。それでいてテレビ画面のなかの、本物の喜劇役者ジェリーが出てくる舞台とそっくりなのだ。パプキンは真剣だ。それだからひとり舞台に立って、観客をイメージしながら練習に励む。完璧を目指すから、テレビの進行役の声も録音してあるのだ。舞台袖から出るタイミングまで完璧だ。
 パプキンは真剣だから、自分がレビューしたあと、他番組に呼ばれたときのこともきちんと考えてある。有名ワイドショーに出演したときの目玉ゲストが出たときの、リアクションまで、きちんと考えてある。パプキンは真剣だから、自分の将来はもう決まっていると思い込んでいる。それだから恋をしている女性にも寛容なのだ。いまは自分を認めてくれなくとも、特に気にはならない。何しろ自分の目の前には喜劇役者のレールがもう敷かれているのだ。女性は有名人に大抵弱いのだ。それがバーで働く、どことなく貧しそうな女ともなれば、尚更だ。けれども売れっ子喜劇役者パプキンはたとえジェリーを追い越すような有名人になっても、昔の恋人を捨てたりはしない。売れっ子スターパプキンは慈悲深いのだ。有名で気品あるワイドショーで婚約の発表をすることこそ、なによりの彼女にとってのプレゼントになるに違いない。パプキンは真剣なのだ。それだから、そのときのセリフと、冗談の掛け合いの練習にも余念がない。司会者の等身大のパネルまで部屋に用意してあるのだ。当然女は感涙にむせぶ。パプキンの将来の中で。
 とにかく、ぼくはこの映画が恐ろしい。観たくもないのに観てしまうことがあるのも恐ろしい。そして、パプキンが真剣で滑稽だと思うたび、転げ回るように、胸が痛くなるから恐ろしい。自分で自分のことが滑稽だと気付かないことは、ぼくにとっては、とても恐ろしいことなのだ。だが、ある程度のところまで、ひとは将来を思い描いたり、滑稽になる、若しくはならざるを得ない。けれどもぼくはなるべく滑稽なひとでいたくないのだ。けれどもそういっていられない。滑稽なのだ。*1
 さて、舞台に立った喜劇役者に評価を下すのは観客である。だが、この映画に観客は出ない。パプキンに審判を下すべき終わりの手前の場面にも出てこない。そして、最後の最後にも結局それは実態なのかどうなのかもよくわからないのだ。
 

 高木美保は5年前のテレビで一貫して真剣だった。そのテレビ番組のスタジオ内に観客は居た。勿論その外にも視聴者という観客が居た。ぼくは胸が痛くなった。司会者は大勢の観客が満足し得る質問をし、眺めるのが仕事なのだ。ぼくは真剣に答える高木美保を観て、胸が痛くなった。同情とか悲しいわけではないのだった。
 ちなみにドストエフスキーの白痴にも、同種の痛みをぼくはときおり感じるのだ。*2

*1:ちなみに、なにかを創(つく)ったりすることに、滑稽になる可能性はつきものだとぼくは思う。受け入れられず、相手にされなければ、それすなわち、人生を無駄にする滑稽な人なのだ。敢えて滑稽になる危険を冒して、そして滑稽になることが頭によぎぎりながらも、その滑稽さを自分のうちに無理矢理隠蔽してでも、最後にはその滑稽さが自分自身の意識のなかに浮かび上がってなにかを邪魔しないうちに、それを見計らって毎日毎日こつこつとなにかをつくったり、なにかをやろうとしているひとを、そういうリスクを引き受けられるひとを、ぼくは手放しで尊敬したい。

*2:高木美保が白痴といってるわけではない。いや、ほんとうに思っていない。だから、ほんとうにほんとうなのだ。思っていません。口を開くたび、ぼくは滑稽になっていくのだ。