手紙を入れたガラス瓶

 メルヴィルのバートゥルビーを読んだ。トラウマチックな読書体験だった。どうやらメルヴィルと肌が合うのか? と自分で考えたけれども、その肌が合うという言葉は、あまりにも卑近で、一方的に親密すぎて、なにかを損ね、おぼろげに見え始めたよくわからないものへの、その距離感さえ逸してしまう言葉だと思った。
『文学とは、ガラス瓶のなかに入れた手紙を、大海に向かって流すようなものだ』というような至言があったと思うのだけれど(出自不明)。とりあえずいまいえること。
 バートゥルビーは”Who”であり”What”であった。最後の最後までは! ぼくは最後にああいう書き方をしてしまうメルヴィルが悲しい。そして、そんなメルヴィルを、とても孤独で寂しいと思う。海の向こうに拾い上げてくれる誰かがいることを彼は信じ切れなかったのだ。それにメルヴィルよ、きみが流すそうとしているのは、ガラス瓶ではなく、棺桶ではないか。手持ちに棺しかなく、それが重すぎることを彼は知っていたのかもしれない。
またたっぷり時間があるときに、バートルビーについて、なにか書きたい。ただ、『書かないほうがいいと思うのですが』という声も聞こえる。