保坂和志と運動会/『コーリング』

残響 (中公文庫)
 もうかなり以前のことだけれど、保坂和志の小説にぼくがはじめて触れたのが、コーリングで、ぼくはそれきり保坂和志をしばらく読まなくなった。どうしてなのかというと、コーリングという小説があまりにも小説として酷くなにかにとらわれすぎた印象に読めたからで、どうしてか食傷をぼくはおぼえたのだった。誰もが懇意にする作家に出会ったときに感じる後悔──もっと早くこの作家に出会っていればよかった、というような遺恨を、ぼくはこの小説から保坂和志に触れてしまったことで未だに持ち続けているのだけれど、いま再読してみると、それなりに、そのときは理解しようのなかった小説内の事柄や繋げ方やワンセンテンスの意図や含意がわかるような気もしてくるのだが、やはりこの小説は、ちょっと小説として失敗なのではないかと思った。
 ちなみにここでぼくがいう『失敗』というのは、ぼく自身が持った小説に対する集合的なイメージに対しての失敗ということで、それは当然だけれど、ぼく自身の極私的な判断だ。そんなわかりきったことを、なぜ書くのかというと、保坂和志はこの小説を、ぼくが失敗とみた見方を目指して書いたと後にわかったからなのだった。*1要するに小説家保坂和志が目指した小説としては、この小説は成功なのである。そして単なる一読書のぼくからみたこの小説は小説として好みに合わないのである。そして、この小説に限ると、読者という立場を越権、若しくは超えて、または忘れて言明すれば、それらを小説観の違いといっていいのかも知れない。(ちなみにそうなると、小説家と読者のあいだの感覚の違いや齟齬のすべてが、小説観の違いという利便性に富んだ、「人生観の違い」や「好みの問題」や「性的な違い」や「世代の違い」などという隔絶的で、歩み寄りを断絶するような、いわば思考の停止を相手に強要したり、されたりする言葉に回収されてしまいそうだが、決してそんなことはない。単純に自分が目指しているもの自体が作者自身も判然とせず、ただだらだらと思念や迎合的な理念や模倣的な夢想が書かれただけの小説や、中途半端に失敗作でも放り出すようにして出版されている小説がどれだけ多いことか!)
 ぼくがなぜ保坂和志という小説家を知ってから、つまり今回の再読後も、このコーリングを失敗なのかと思ったのか。具体的に他の保坂和志の小説からの差異で言明すると、それはこの小説が他の保坂和志の小説とは違い、三人称で書かれているからなのだった。表面的なことは本当に単純なことなのだけれども、そして、こと保坂和志の小説に至ってはあらすじを書くことがいかにも無意味だというような小説なのだけれど、──つまりあらすじを説明しても、この小説家の小説のおもしろさは、まるきり微塵も伝わらないと思うのだけれど、それは三人称になっても変わらない。それだからこのコーリングという小説で保坂和志がやりたかったことにのみ言及すれば、恐らくなにかしらの答えを小説として、誰か(若しくは自分)に提示するということなだのだと思う。

 土井浩二が三年前に別れた美緒の夢で目覚めた朝、美緒はもちろん浩二の夢など見ていなかったし思い出しもしていなかった。
──こんなに痛くてはあと三十分残っている時間は眠れないかもしれないと浩二が思っていた同じその時間に、美緒でない恵子が浩二のことを思い出していることを浩二は知らない。

つまり、

「ある場所であるひとがかつていろいろなことを感じたり考えたりしたことを、神秘主義やロマンチックな空想ではなく、物質的に確かめることは可能だろうか」(チェーホフの問い、十代のせつなさ)残響の解説より 解説:石川忠司

というコーリングの後に書かれたおなじ三人称小説の「残響」の問いを産む前段階的な問いである。──誰かと誰かはどのようにして繋がっているのか、(そこにはどのようにして繋がっているようでいて、実はどのようにして繋がっていないのかという問いもその裏側に貼り付くように存在している)そのひとつの答え、答えという言葉が強すぎるような、なにかの肯定をするため──に書かれたものといっていいかと思う。
 さて、問題はこの小説がそのような問いに答えを出すために三人称で書かれているということで、──その方法をとらざるを得なかった方法論は、ぼくが感じた失敗と、ホームビデオの感覚を言及するここでは割愛、というかまだよく考えていない──この小説は保坂和志の三人称的な神の視点によって記述されている。三人称的な神の視点と書いたのは、記述者の視点ではないからで、小説内の具体的な事柄でいうと、幾人かの登場人物の感情をこの小説は事細かに描いている。つまり、ひとりの人間としての物理的な制約を逃れてこの小説は書かれている。──アンガージュマンとかそういう方向へ行かずに、もうすこしつまびらかにいうと、ぼくはぼく以外の考えを、現実のなかでは、どうやっても覗けないが、神様が全知全能だとして、その神様なら可能である。(ただし目の前の誰かがなにを思っているのか、その仕草や過去の付き合いから推測することはぼくにも可能だ。それゆえ一人称の(ぼく、わたしという主語で書かれた)小説では他人を描写するときには、○○はそう思ったらしい。という「らしい」という推測の痕跡がある言葉が使われる。
 まあそんな基本的お約束はともかく、保坂和志の小説内での作法(コーリングが書かれたのが1994.12/以下のものが書かれたのが2001.11)。

 もちろん、小説の中でその人物の欠点をあげつらったりしていない。かりに欠点と見えることを書いていても、『プレーンソング』でアキラについて書いているように、「欠点それ自体が長所となる」ような書き方をしていたつもりで、「欠点それ自体が長所となる」ような人が私は好きなのだ(私自身もそういう人間の1人だ)。
連載【小説論番外篇】vol.08「小説と実在の人物」 保坂和志より

 結論からいうと、ぼくは他人の家の運動会ビデオを延々と見せられような気持ちに、昔も、そしていまもこの『コーリング』を読んでいるときなったのだった。
 これは同時におそらく一人称と三人称の違いにもまた触れることなのだけれど、小説内に批判(あげつらうというような意味だけではなく、自省や内省も勿論含む)を差し入れる隙間が一部もなく、そこから湧き出た批判が、小説という枠組みを一端超えて、小説家に向かってしまうような書き方をしてしまっているからだと思う。
 稚拙な例だけれども、保坂和志の一人称の小説は、ビデオカメラを持った保坂和志が延々と解説をしながら、ときにカメラを地面に固定しつつ自分も映像のなかに入りながら、それでもピンマイクで喋るという離れわざまでやってのけ、このひとはどれどれどういうひとで、そのとなりの赤いはちまきをした女性は猫が好きで、そのくせ自分で餌をやらないくせに、でも猫の姿が半日でも見えなくなると泣き出すようなひとなのだ。それはともかく、いまあそこの門からはいってきて、玉入れの道具を片付けてるのは、ぼくの家のすぐ近くの酒屋の息子で、親父とぼくとは比較的懇意なわけだけれど、どうしてかぼくの姿を見ると彼はいつでも逃げ出すように隠れてしまい、いまもカメラを向けただけで挨拶だけして彼はさっと玉入れの籠の影に隠れてしまうようなとこがあるわけだけれど……。という映像をぼくは自分の家でひとりで色んなことを自分も呟きながら観るような感覚だとつでも思うわけだけれど、けれども、この『コーリング』は、テレビ画面に映った同種の映像を保坂和志がテレビの前で、つまりぼくの隣で永延と登場人物を褒めたり、肯定したりしているような小説なのだった。そしてもちろん誰かの家庭でホームビデオを永延と見せられているときと同様、そこには双方向的なコミュニケーションはない。つまり会話は見せている側の喜悦に溢れた一方通行だから、ぼくは保坂和志に向ってなにもいえない。つまりぼくのそのようなものから生じる批判の行き先は、ひとりでテレビを観ていたときと違い、目の前で映像を永延と見させられながら、なおかつ批判さえも口にさせてくれない、保坂和志に向かってしまう小説になってしまっているのだった。
 ちなみに通常の映像、つまり普通のテレビドラマや映画では、特定の誰かを悪に見立てたり、傑物的に描くことや、筋書きでひとを画面に集中させたりする。(それゆえぼくはこの小説をはじめて読んだとき、内面描写がなされない人物(チエ)に対して自然とそのような期待に近い意識を抱いていたが、それもなくて驚いたというより、尚も肯定しひとつの仲間意識のなかへ引き摺りこむようで、変な気持ちの悪さを感じた)それらすべてが保坂和志の小説には大抵なく(それがないことはもちろんぜんぜん構わない)、それらがないことに対する批判や期待、やや行き過ぎる傾向のある称揚への矛先を小説内のぼくが一身に負っていたが、保坂和志が小説の外へ現出することにより、それらすべてが批判出来得ない外側の領域(それは言葉の外とかいうわけではなく、単に抑圧に近い、押しつけという形で、批判のはいれる隙間をなくしているだけ、上司の家での運動会ビデオの鑑賞に近い)に向ってしまったのではないかと思う。

 捕捉
 運動会の様子を撮影したホームビデオのなかで起こった事件(例えば競争中の転倒とか、玉入れの籠の崩壊とか)が、どうして事件としての悲愴感や、強度の事件としての緊張を観る側にもたらさないのかというと、それは単純に過去起きた事柄という時間制からくる過ぎ去った事柄に対する安心が、ホームビデオを観る側が、事前にそれがホームビデオであるということで認識しているからだと思う。
 そもそもホームビデオがホームビデオである所以は、それがホームというひとつの家族単位から逸脱がなく、強度の悲愴感(不幸)を排除しているからで、たとえば家庭内の殺人事件や家庭の後遺症をうつした家庭用のビデオは、その事件が最早家庭という単位からも逸脱するか、崩壊させ得るかも知れないような重要な事柄ということにおいて、もはやホームビデオという楽観を帯びた属性はなくなってしまうとぼくは考える。つまりそれは、重大な過去を撮影してしまったビデオ、ホームビデオという狭義の娯楽性(その狭義さゆえに他人には大抵つまらない)ゆえに、ときに公共性を帯びたビデオに変わる。つまり観る側にとってもそれは最早ホームビデオとは呼べない代物に変わっている。視聴させる側に至っても、ホームビデオとしてそのような映像(たとえば、家庭内の殺人事件や家庭内の不幸な出来事)を誰かしらに視聴させた場合、狂気を持つのはそのホームビデオではなく、それをホームビデオだと見せた側の倫理が問われる。すなわちそれは両者にとっても、もはやホームビデオではないのだ。
 もう一例あげると、ホームビデオを紹介するテレビ番組で放映された交通事故の映像は、観る側に過度の事件的な緊張を与えず、迎合的な抑圧さえときに強いるが、ニュース番組でその映像を紹介したならば、観る側に事件的な緊張やホームビデオとはまた別種の形の抑圧(不謹慎な言葉や笑いなどの禁止)を強いる。すべては、ホームビデオという言葉が本来持つ、家庭で撮影されたビデオという単純な事柄から逸脱したうえで考察しているが、普段我々がホームビデオという言葉をもちいるとき、ホームビデオは前述のようなことを大抵指し示すと思うし、見せられている最中にショッキングな映像が流れたのなら、それはホームビデオではなくなってしまい、他のものになるのではないかと思う。要するにホームビデオはつまらないからホームビデオなのだけれど、もちろんそれ以外に存在する意義はあって撮られて保存されているが、それが万人にも共有できるのかというと決してそうではないものが、ホームビデオという代物だと思う。