角田光代の小説愛/『空中庭園』

空中庭園 (文春文庫)
 記録所 / Pulp Literatureさんを見ていて、文庫が出ていて買ったはいいが、放って置きっぱなしだったのを随分と久方ぶりに思い出した。映画化することも知らなかった。なんでも小泉今日子が主演だそうなのである。そう思ってしまうと、読んでいるときにちらちらと主人公の声と小泉今日子の姿が重なってしまうこともあるのだが、今日一気に読んで、一度もそういうことはなかった。な、なぜだ?
 まあ、それは置いておくとして、作者側にどういった事情や経緯があったのかは知る由はないけれど、これはちょっと、小説として失敗作なのではないかとぼくは途中から思い始めた。そして結局最後まで読み終えて、それが確信となってしまった。
 ぼくは主人公と上で書いたけれど、この小説全体に主人公というものはいない。連作短編のような形式をとっており、各短編により語り手が変わる(ちなみに小泉今日子は母親役らしいが、やはりイメージがぴんとこなかった)。小説は一貫してその語り手による一人称で語られる。内容はひとことでいえば、家族物だ。
 さて、この小説のどこが気に入らないかというと、実はそういう感情面の問題ではなく、小説自体の構造の問題なのである。いや、構造とか大仰な言葉を使うまでもなく、単におおきな欠陥がひとつあるのだ。角田光代とか出版社の事情などぼくが知る由もないけれど、連作短編の核となる第一遍目を書いたときには、このひと後のことを考えていなかったのではないかとぼくは疑う。あまりにもトーンが違うし、後の主題のひとつである、人が持つ悪意というものが、この第一編だけ、まったく後とおなじ形で描かれていない。あくまでも独立したものとして、この第一編の短編を作者は書き終えたのではないだろうか。この第一編での主題はあくまでも冒頭にも語られる。

 ふたつ目の理由は、あたしの家の家庭方針にある。
 何ごともつつみかくさず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合おう、というモットーのもとにあたしたちは家族をいとなんでいる。

 それが第二編からは、主題ではなく、悪意を隠蔽したり、表象したり、露出したりする道具立てに替わっている。作者の欲望が、人の持つ悪意というものに、完全にシフトしてしまっている。ぼくはシフトそのものが悪いというわけではなく、唐突すぎるし、描かれ方が違っても登場させなければならず、結局ちょっと頭が足りないというような描かれ方で帳尻を合わせたような、要するに、無理がありすぎるような気がするのだ。結局その無理に最後まで付き合わされて気がしてしまって、第一編の意味、必要性(主題の消化の仕方や、家族の描き方)があまりにもぼくにはよく解らなさすぎて、そのまま終わってしまった。
 それにしても、自分で思って、自分でおかしな言葉だと思ったが、悪意すべてが随分と門切り型で、どうも悪意を書けば書くほど怖さがなくなっていく。まるで墓場のすべてに念入りに幽霊を隠した肝試しみたいに、迫力がなくなって、こちらの力が抜けていく。悪意だけが強調され過ぎて、悪意だけが空回りしている。(これはひょっとして、計算かも知れない)。それにしても誰にでも見えない部分で悪意を抱えたりしている。ということで書いたのだろうけれど、あまりにもそれが強調され過ぎて、ちょっとうんざりしてしまった。どうして親子同士が根本的な勘違いに至ったのか、大事な部分が描かれていないし。
 まあ、ちなみに物語自体の推進力はかなり高めで、最後までそういう面ではおもしろく読めた。いっそのこと悪意を描くとか、文学的野望みないなそういう一切を捨てて、書いたらどうだろうか? と思っていたら、あとがきに直木賞を受賞した『対岸の彼女』は明るく、希望があるというようなことが書かれていた。これだけ好き勝手書いてなんだけれど、機会があれば、読んでみたいなと思った。ストーリーテーリングは抜群にうまく、道具の使い方も細やかで気が利いているのだ。
 なんか愛も締まりもない書籍言及になってしまったけれど、なんというか、なんかぼくのなかの小説愛(たぶん、おそらく、ジャイアンツ愛みたいなもの)がこの小説からは沸いてこないのだ。あんまり普段、そんなことはないのだけれど。