派生するかも知れないし、派生しないかも知れない、ちょっとほんとにメモらしきもの。

 なんの因果もなくだらだらと悪意や善意だけを抽出して描き出すことが、小説として成り立つのだろうかと、ぼくは今日ずっと考えていた。
 その映像は高層ビルのアップからはじまる。8㎜フィルム。古い機材か、それともどこかしら故障しているらしく、映像の節々にはノイズが入る。音も聴こえない。まるでそこに並んだひとつひとつの窓の中を覗くように、カメラは静止し、また動いては静止し、また動いては静止する。だがそこには隣のビルの姿しか映し出されない。隣のビルはそのビルとよく似ている。内部はマジックミラーの為見えない。突然落下するようにカメラは歩道に埋められた一枚のタイルを映し出す。周囲にもコンクリートを四角く切り取って、埋めた似たようなタイルが埋まっている。次にカメラは前方に続く歩道を映し出す。俯いていた顔を上げたときのようなゆっくりとした動きだ。画面は揺れる。よく見知った揺れ方だ。カメラを持った人物が、歩きはじめたらしい。向こうから女性が歩いてくる。仕事中らしくグレーのスーツにちいさな革製の鞄を持っている。カメラとすれ違うと女性は倒れる。音はしない。はじめからすべてが無音なのだ。そして次にやってきた紺色のスーツを着た若い男もおなじように倒れる。そして次にやってきた中年のジョギング最中らしい男も倒れる。犬を散歩している女性も、ティッシュを配っている女性も、それを受け取っていた男性もとにかくカメラとすれ違うと倒れる。
 実際には、そこに血飛沫──残虐な光景が荒い映像と無音で延々と上映され続けたのだが、ぼくがその冒頭部分の景色の映像とは関係なく、ただリアルな屍体と大量の血糊と抉れた肉片を観て、見るに耐えないと思ったことや、嘔吐をもたす気持ちの悪さ。それは恐らくぼくが本来的に持ち合わせたものとの関係性のなかで、極ダイレクトに近い仕組みでうまれたものなのだ。──ここでぼくがいう本来的とはアプリオリでもアポステリオリでもとにかくよく、様々な定義でひとが内に見出したり、再発見したり、釘付けされたり、自らを釘で打ちつけたりするような形で言及されてきたもの(例えば、親が死ぬとどうしてひとは悲しくなり、その感情はどこからくるのかとか。赤ちゃんの鳴き声はどうしてひとになにかしらの感情を与えて、それはどうしてなのか。寝ているときに蚊の飛んでいる音で目を覚ますのはなぜか。とか、という思い切っていえば、身体性にでも脳みそにでもメタフィジカルにでも社会性にでも、とにかく刻みこまれたもの)そういったものから直喩的にもたらされる、気持ちの悪さ、すなわち、感情の揺らぎなのであって、そこには小説という機能の介在の意義がない。あるのはただ記号と、反応だけなのだ。卒業文集の寄せ書きはときとしてどこか、悲しくて、甘酸っぱいものをもたらすけれど、寄せ書きだけでは小説ではない。そして卒業の寄せ書きとか、春、と聴いたり、書いただけで、ひとはときに悲しくて、甘酸っぱいものを抱いてしまう。梅干し、レモンと聞いて唾液が出るのとおなじなのだ。
 唐突に終わるけれども、かわいい猫をそのままかわいく描いたり、そのままかわいく撮った写真に、芸術的価値がないのとおなじなのかも知れない。けれどもそのまえに、ぼくは小説が芸術なのかも、おおいに疑わしいのであった。感情の充実を偽装して、そこにあるのは欠落なのだ。