小説の精度と作者の狡さ/中上紀『ニナンサン』藤野千夜『ネバーランド』

  またまた先月号の話しで恐縮なのだけれど(いつも読み終わるのが遅いのです)、新潮4月号を読み終わった。チェーホフ未邦訳短編短編が載るということで楽しみにしていたのだけれど、所謂チェホンテ時代の売文小説ばかりで少々がっかりした。それはともかく、読みどころが余りにもなくて、びっくりした。余りにびっくりして、なぜだか暗い気持ちになったのだけれど、一番はじめの中上紀の小説からして、ちょっと酷いではないかと思った。説明を付け加えるならば中上紀というのはケンジ氏の娘なのだけれど、小説を書くという段階にまで、至ってないのではないかとぼくは単純に思ってしまった。なにが至っていないのかというと、小説家として、(そしてこのひとの場合には否応なくケンジ氏の娘として)自分がどのような小説を書くべきか、または自分がどのような人間を小説の中に描くべきかというものが、まったく見えていなくて、ただ文学というものの軌跡を追いかけて、なぞっているような文章(小説ではない)ではないかと読んでいて思った。以下にこの人が書いたエッセイがあるのだけれど(http://www31.ocn.ne.jp/~nakagami/menu.html旅の部屋から)、それと同じで、ただページを埋めるためだけに積み上げられたエピソードが、漫然と面白さというか、特徴すらまったくわからないままに積み上げられていて、そういう意識のなさがあってだと思うが、どこかケンジ氏を真似たような朴訥とした言い回しが、見事に空回りしていて、なんだか地に足が着いていない文学を真似た文章みたいで、小説としての心地が大変悪い。
http://book.shinchosha.co.jp/shincho/200604/nakagami_nori.htm
子宮から悲鳴など、今時の小説であり得るのだろうかとぎょっとしてしまった。自分の書くべきものをもっと深く考えるべきではないか、そして、もう少し小説というものについて考えを巡らせるべきではないか、とぼくは思ったのだが、そのあとの藤野千夜の『ネバーランド』を読んで、ある種の狡さを感じてしまった。ぼくが記憶する限りでは、この種の狡さというか、違う言葉で言えば「技巧」が広まったのが、Mハルキ以降だと思うのだけれど、なぜ以降なのかというと、Mハルキ氏が使いだしたからで、主張や空洞化した単語(主に地名)をぽんと小説の中に言葉(単語)として放り込んでしまって、放り込んだもののある種の小説家としての含羞からか、それともちょっとしたアクセントだということか、そのあと知らぬ存ぜぬで、最後までやり過ごして、結局はその放り込まれた言葉の周辺を彷徨いながらも、そこには辿り着かないというものだが。
(ここは実に着目すべきおもしろいことで、主題に辿り着けない、若しくは着かないという決意や、悪くいえばごまかし、だが、それだからこそ、その主題自身を単語として放り込むという手法が、その小説内でとられている筈なのだが、その辿り着けなさこそが、ある種の醍醐味というような倒錯がその単語を無視、若しくはあたかもそれを見なかったかのような振るまい、或いは推理小説の犯人を知っているのに知らないふりをして共犯関係として読むようにすると起こる。しかしそも考えてみれば、その言葉を放り込んだ時点で、その小説はもう追いつめるべき核(例、主題・フィナーレ)を失ってしまって、ただその周辺の断片群を如何にセンスよく、読者の気を惹きつけたまま、されども解決されることなく語り得るかということしか意義が存在せず(しかもやろうと思えば延々と語り続けられる)、けれどもどうしてもというのなら小説内のフィクションを更に逸脱した架空の終わりを用意されることでしか、フィナーレはやってこないのだが、それは作者の苦渋などではなく、作者のとった手法として単に当然の帰結なのだ。小説を立体的に立ち上げることの放棄とでもいえばいいのか、──ちなみにぼくはもうそろそろその手法に飽き飽きしている)
ちょっといいたいことと違ったけれど、大半を上記でいってしまったような気がするので、以下抜粋。

誰かの提案には真っ先に反応して、いいねそれいいね、とギャル男のように騒いでいつの間にかグループの中心みたいな顔つきとなり、帰ろうとするものを引き留めたり見送ったり、もう友だちだねとお調子ものの女にいわれれば大きくうなずき、夜更け近くにお手洗いに立つと、いきなり下半身剥き出しで戻ってきた。
「あ、いけない、ズボンをはきわすれた」
 とまたトイレに向かったら、全員相談のうえ一応警察沙汰にはしなかったけれど、もちろんすぐに帰ってもらって、以来出禁。その教授から翌週届いたお礼のハガキには、嗚呼、S町のネバーランドに乾杯、と書いてあった。
 それからここは、ときどきそう呼ばれている。
 S街のネバーランド
 ピーターパンが連れいってくれるという、あの子供のための国。
ネバーランド』より

 この『ネバーランド』だけで、この小説になにが書かれているのか、この小説のすべてを読まなくても、なにかがわかってしまって(ああ、また例のニート小説ですかというような)、最後まで読む意義(小説としての存在意義)に疑問が沸くことはないだろうか?