チェーホフは懐石/『かわいい女・犬を連れた奥さん』

かわいい女・犬を連れた奥さん (新潮文庫)
チェーホフはいつ読んでもおいしい。おいしいといっても、スリリングな展開に毎度のこと胸がどきどきするとか、感動が荒波のように押し寄せてくるということではない。読後にじんわりとした感慨が、染み入るように広がってくるのだ。まるでよくできた懐石料理の一品のようにチェーホフの短編はやさしく、おいしい。
 やさしい。それは誤解を生むかも知れない。チェーホフは南ロシアの港町に生まれ、16歳のときに家が破産し、モスクワの医学部に入ると同時に家計を支えるため、雑誌・新聞に短編を執筆したのが切っ掛けで、文名を高めた。(ちなみにその短編の数は、およそ7年間で400にも及ぶ)晩年も難民救済活動など、篤志家として有名だが、チェーホフが書いた小説もそのようなヒューマニズムの力にあふれたやさしいものなのかというと、決してそうではない。
チェーホフの小説に出てくる人は、いつでも自分勝手だ。強欲で、ときにはチェーホフ自身が身を粉にして、守ってきた家族さえも捨て去る。*1
 やや使い古された言い回しだけれども、チェーホフは決してそれらのひとたちを小説のなかで裁いたり、感情が赴くままに話しの方向を転換させたりはしない。チェーホフはひとりの観察者として、じっと小説の中にいる。
 じっと小説のなかにいる。
 結論からいってしまえば、それがぼくの感じるチェーホフの小説の欠点らしきところであり、やさしさの唯一の発露であり、それゆえのおいしさなのである。
 チェーホフは徹底して観察者にはなりきれなかった。
 

これらの墓の中には、かつて美しくて魅力的で、恋をし、夜ごと愛撫に身を任せ、情熱に身を焼いた婦人や少女たちが、一体何人埋められているのだろう。突き詰めて考えれば、母なる自然はなんと意地悪く人間をからかうものであり、それを思うと、なんと腹正しいことだろう!
『イオーヌイチ』より

海はまだヤルタやオレアンダがなかった頃も同じ場所でざわめき、現在もざわめき、私たちがいなくなったあとも同じように無関心にざわめきつづけるだろう。その恒久不変性のなかに、私たち一人一人の生や死にたいするこの全き無関心のなかに、恐らくは私たちの永遠の救いや、地上の生活の絶え間ない移り行きや、絶え間ない向上を保証するものが隠されているに相違いない。
『犬を連れた奥さん』より

『イオーヌイチ』では、墓場で主人公のイオーヌイチが待っているときの地の文が以上のものだ。(それにしても逢い引きの場所が墓場!)『犬を連れた奥さん』では、主人公であるグーロフと犬を連れた奥さんが、ヤルタに赴き、海を眺めたときに差し入れられる。いずれにしても、地の文でこのような作者自身の声と取れる文が挿入されてしまうのは、小説として危険な行為だ。それまで維持してきた小説の手法を破壊してしまうだけではなく、小説それ自体の存在意義を危うくする。*2
 けれどもチェーホフはそのような手法を選択し、自身の声を小説のなかに偏在させる。チェーホフは、あくまでも観察者としてのポジションを維持するために、地の文に自身の声を偏在させることを選択しているのだ。
 チェーホフそのひとの声と(引用部の慈しみに溢れた)、チェーホフが書く登場人物とのあいだには、差異がある。ギャップとか、格差とか、世界と自分との隔たり、と言い換えてもいい。
登場人物は、自分自身で身を滅ぼすように、大抵どこか寂しい結末に至ってしまう。けれども、その侘びしさこそがチェーホフそのひと自身が感じていた、侘びしさや寂しさや歯がゆさではないだろうか。
 チェーホフの理想と、外部との格差。それゆえチェーホフの小説は読み終えるとどこかさびしくて、わびしくい。ただ静かな達観した世界の響きが残る。
 そのそこはかとない侘びしさが、恐らくぼくに、美しい土の器にぽつんと盛られた懐石料理を思い起こさせるのだ。

*1:『いいなずけ』のナージャ、『谷間』のアニシムに至っては”家”を崩壊させてしまう。

*2:ぼくは小説というあり方の構造の否定や、破壊が悪いといっているわけではない。ここで取り上げる危うさというのは、あくまでも小説の全体的なバランスのことなのだ。どうバランスが悪くなるといえば、そればかりは全文を引用するくらいしかやはりないかも知れない……。