賞と綿谷りさ/『蹴りたい背中』

 長所といえば、やはりヴィジュアル。それは、まあ本当であって冗談なのだけれど、そのほかにこの年齢。これは多分、肝心な武器なのである。そのほかには、どこか醒めたように浮上してくる、鋭い御指摘の数々は実に興味深く、拝聴に値する。

部員たちはちいさなミスをきゃっきゃ笑い、先生必死のギャグにもきゃっきゃ笑って応えることで、今年から顧問になった白髪で口が曲がっているこの先生を、「厳しいけど、ちょっと抜けてる先生」という市販品に仕立て上げることに成功した。

なかなか鋭い、如何にも小説家としての視線である。
しかし自分の短所には綿谷りささん(19)早稲田大学在住はいかにも無頓着であった。書く人間が薄っぺらい。ここでいう薄っぺらさとは、年齢から生じる、──いわゆる年長ということ意外に取り柄のない年長者たちが往々にして口にする、──すなわち人生経験のなさから生じるものではなく、小説をどのように進行させていくかという選択から生じた作家としての失敗なのである。19歳の作家に向かって、酷なのかも知れない。けれども19歳ゆえに上記のような鋭さは、やはりすばらしいのである。ひとことでいえば才能とよんでいいのだろう。
 

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締め付けるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。

 気の利いたフレーズだってきちんと書けるのである。けれどもやはり、薄っぺらい人間関係から生じる葛藤のなさは、鋭さに反していかにも不自然で、ご都合主義的だ。人間が二次元的なのである。物語をする為に、物語のなかで都合良く配置され、作家にとって調子よく動いてしまうから、ぺらぺらの画用紙に書かれた絵や、ライトノベルやアニメのキャラさえ彷彿させる。*1主人公の身長も作中アニメ的に自在に伸縮し、電球まで絵化してしまう。

ふさふさの茶髪といい、まるで外国人で、手に水の入ったコップを持っている。(略)
 背が高い彼女は私の目線まで腰を折り曲げてから、コップを手渡した。目の前に顔が来て、私は思わず顎を引いた。
(初対面のひとにいきなり顔を近づけるのは屈託のなさを表すという以上の過剰があるように思う。まるでアニメの絵の構図そのものになる)

古い校舎の階段のようだ。私たちが段を踏みしめる度に、階段の橙色の電球は、線香花火のように細かく震える。

 そもそも高校1年の女の子が、なんの疑いも葛藤もなく、口をほとんどきいたこともない男の子(にな川)に誘われて、学校帰り家までほいほいとついて行くだろうか?
 あまりにも都合良すぎるのである。
 けれども作家綿矢りさ(19)は漫画家ではなく、作家である。男の子(にな川)をオタク的、すなわちマイノリティ的(大袈裟な言葉だが)存在で描こうとしたことが、そもそも小説家であった。当然そうなると、接点として私(ハツ)も同種の趣味を持つか、マイノリティ的でなければならない。健全なクラスメートが排他(マイノリティ)されているクラスメートに近づいて、物語をドライブさせるのは、いかにも別のなにかが産まれそうで、下手をすれば単なる道徳的なアニメになってしまう。排他されている男の子を描きたいのならば、女の子も排他されている必要があるのである。そうなると当然、排他されている側と、している側の関係も描かなければならない。単なるオタク日誌になってしまう。世界ではなく、世間を描く必要があった。それは高校入学までは仲が良かった中学までの同級生絹代を描けばよかった。役者=構図は揃った。そして綿谷りさが巧妙だったのは、単に排他されている(いじめられている)のではなく、自分の意志からマイノリティ/サブカルチャーを選択している人間を描くことにあった。絹代(世間)から見た私という視線と、私からみた絹代たち(世間)という視線には、それ故ずれが生じる。ブンガク的である。そしていかにもその選択しているという強気な幻想が現代的である。世界ではなく世間という強度が如何にもわかわかしく、イノセンティックだ。それゆえ世界ははっきりと見えなくともよく、オリちゃんひとりが担えばいい。背伸びは不要だ。
それらを作家綿谷りさ(19)はきちんと意識的、無意識的に使い分けができた。
 けれども、虐げられているもの同士の交流にはすこし困ったのも事実だった。それにノベル的なおもしろさもなければ、見向きもされないかも知れない。何しろ2作目なのだ、つまらなかったらどうしよう。かといってオタクとの交流をほのぼのと描くわけにもいかない。ディープに描くことはちょっと趣味じゃないし、読んでいて飽きられるかもしれない。そういった迷いや葛藤があったのかどうかはあくまでも想像だが(当たり前だ)、のびのびと描くことにした。結果、ライトノベル的になってしまった。ちょっと都合良過ぎかもしれない。
 けれども、ずれを描くこと、鋭いことを書くことには、ちょっと自信があった。自分で自分の書いてみたいことに気付いていたし、書いていて手応えを感じるのだ。そして、自分の資質に完全に気付いた後半部こそ、この小説はきちんと評価という俎上にまで、上がることができる小説に変わる。1回目の背中を蹴りたいと思ったときと、2回目の背中を蹴りたいと思ったときの違いよう。小説的な広がりの有無。細かい内容についても触れたいのだけれど、まだ纏まっていないし、方々でいわれていることであるので割愛。ハッ。ていうかこの投げやりなスタンス。

 蛇足かもしれないけれど、この回に至っては芥川賞がうまく機能したのではないかとぼくは思う。これは、きちんと評価に値する小説に賞が与えられたという、最早方々でいわれ尽くした批判を、ぼく自身の批判で対向したいということではなく。後半部の資質こそあなたの小説家としての長所であるということを、受賞という形で後押しし、自信を与えたことに関して、芥川賞はうまく機能したのではないかと思う。いや、というより、次回以降の小説を読んで、そう思いたい。小説家としての大事な選択を芥川賞が与え、変な迷いや、色気を断ち切るために機能するとういう役目でなら、まだ芥川賞は死んでいない。と想いたい。*2
 それにしてもインストールが売っていない。

*1:動的な矛盾(主人公の行動)から無意識が生じず、こちらの意識に訴えかけくるような謎にもならず、人物描写の稚拙さそのものになってしまっている。

*2:ちなみに単に小説としての完成度なら、長島有のデヴュー作、サイドカーに犬の方が普通に上だとぼくは思うのだ。年は違うけれど女の子を描いているということと、それほど傑作というわけではなく皮肉でもなく、単なる比較としていうと